ダニエル

−神の主権と統治−




1.人物像



ダニエルとは「神はわが裁き主」の意味です。彼はユダ族の出身で、王族であったと推測されます。時は紀元前605年、南北に分裂したニつの王国もすでに北王国はアッシリアに滅ぼされ(BC.721)、南王国もバビロンのネブカデネザルによって陥落し、多くの有能なユダヤ人たちはバビロンへと連行されました。ネブカデネザルの政策として、征服した地の有能な人々を自分の国において登用したのです。

ダニエルはその少年期にバビロンに連行されましたが、異郷の地においてもなる神に対する忠誠は揺るぐことなく、王などの挑発や計略による命の危険に直面しても自らの霊的聖潔を守り、またも超自然的な介入によって彼を守られました。ダニエルには神の霊が宿っていましたから、王の夢を解くという能力に秀で出ており、結局は王の信頼を勝ち取ってバビロンにおいても高い位に付きます。

こうしてネブカデネザル王に続いて、ベルシャツァル王、メディアのダリヨス王、ペルシャのキュロス王の下で活躍し、かなり高齢に至るまで生き延びたと推測されます。この間、彼の見た幻は、当時の状況(1−6章)から終わりの時代に至るまで(7−12章)、きわめて長いスパンに渡っており、神のご計画と地上の王国の関係を絵として提示し、その中で働かれるの主権を証ししているのです。



2.主要なエピソードとその霊的意義




2.1.王の夢を解く

物 語

ダニエルとその友人ハナヌヤ(「は恵を賜う」の意)、ミシャエル(「誰がのようであろう」の意)、アザルヤ(「は助ける」の意)はバビロンにおいても主なる神の律法に忠実であり、食事もその規定に従ってバビロンの物を避けてベジタブリアンでしたが、彼らは血色もよく体も健康でした。ある日ネブカデネザルの見た夢をカルデヤ人たちに解くように命じますが、彼らはそれができず、怒った王はバビロンの知者をすべて殺そうとします。ダニエルもその脅威に曝されますが、知恵と思慮をもって対応し、にその解き明かしを求めますと幻のうちに解けてしまいます。

その夢はひとつの像であり、頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。また一つの石が人の手によらず切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち砕きました。そしてすべては砕け散って大きな石が山となって全土に満ちました。これは古代歴史と、主イエス・キリストによる天の国の勝利と統治を象徴していました(注)。この解き明かしにより王は主なる神を認め、ダニエルを高い位に着けました。
(注)その後の歴史を見ますと、この夢は、バビロン(純金:BC606-539)、メド・ペルシャ(銀:BC539-331)、ギリシャ(青銅:BC331-146)、ローマ(鉄:BC146-AD476)、分裂したローマ(鉄と粘土:AD476-)と対応します。人手によらず切り出されたひとつの石とはもちろんイエス・キリストのことであり(マタイ21:42,44)、終わりの日には地上のあらゆる権力はすべて散らされて、キリストの統治が確立することの予言です。キリストこそダビデに約束された永遠の王国の統治者の実体であり、神のご計画の中心にして成就です。


霊的意義

バビロンという偶像礼拝的な異教の地においてもダニエルらは霊的純潔を保ちます。また神は異教的な絶大な力を持った王の影響からダニエルらを守ります。ダニエルは知恵と思慮をもって王の使者に応対し、自分が直面している脅威の原因を見出し、神に祈ることによってその対応策を見出します。私たちも現在キリストを排除する異教の地において寄留者として生活していますが、なる神に対する純潔を守るとき、あらゆるこの世サタンからの挑発に対して、神の知恵をもって対応するとき、勝利を得ることができます。ダニエルの証しの言葉:「天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることを王に示されたのです」(2:28)とあるとおり、地を絶大な力によって支配しているこの世の王も認めざるを得なくなるのです。勝利の鍵は目の前の王の権威を認めつつも、それに勝る最終の主権は天にいますひとりの神にあることを信じることにあります。


2.2.ネブカデネザルの高ぶりと狂気

物 語

ある日王は金の像を造り、すべての国民にそれを拝むことを命じます。カルデヤ人はユダヤ人が礼拝を拒否していると告発し、ダニエルの3人の友人は王の逆鱗に触れて燃える火の炉の中に投げ込まれます。その危機においても彼らは「私たちの仕える神は火の燃える炉から私たちを救うことができる。金の像を拝むことはできない。」と証しします(3:17)。すると通常の7倍も熱い炉の中においても彼らはまったく焼けることなく、王は彼ら3人と神の子のように見える方が火の中を歩いている様子を見ます。こうして王は再び主なる神を認め、3人を保護し高い位に着けるのでした。

王は再び夢を見て、再びダニエルがそれを解きます。それは王が繁栄しその栄華を誇るならば王は狂気に落ちることでした。果たして王は自らの業績の栄光を自ら誇ると、天からの裁きの声が下り、狂気に陥りますが、七つの時が過ぎると理性が戻った王は、まことの主なる神をほめたたえ、賛美するのでした。こうして彼の繁栄は戻されますが、彼は「天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。」(4:37)と証しするのでした。しかしこの父王の歩みを知っていながらその子ベルシャツァルは偶像を拝し、天の神に対して高ぶります。すると祝宴の最中に手が現れ、壁に「メネ(数える)、メネ、テケル(量を測る)、パルシン(分けられる)」と彼の滅びの運命を予言する言葉を記すと、それを解釈したダニエルの語るとおり、果たしてそのとおりになりました。

続いて王となったダリヨスはダニエルには優れた霊が宿っていることを認め、彼に全国を治めさせようとしますが、嫉妬した他の大臣や太守が彼を罠に落とします。ダリヨス以外の者に祈願する者を獅子の穴に投げ入れると言う法律を制定させ、それを根拠に、日に3度なる神を礼拝しているダニエルを訴えたのです。王はダニエルを助けようとしますが、法に従って獅子の穴に投げ込まざるを得ませんでした。しかしダニエルは「私の神は使いを送り、獅子の口をふさいで下さった」と証しし、救い出されます。かえってダニエルをはめた者たちが獅子の穴で処刑され、王は「ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそまことの神・・・」と主の主権を認めるのでした。


霊的意義

私たちが礼拝する対象はまことのなる神だけです。異教の地においてこの証しを保つには時に挑発や挑戦を受け、勇気を必要とする場面があります。この世を礼拝する人々を疎ましく感じるからです。その計略にあってもなる神を唯一の避けどころとするならば、は私たちを超自然的な方法によって守られます。3人の友人と共に神の子のような方がいたとあるとおり、熱い火の中で私たちと共にいて(インマヌエル)下さるのです。こうして世の王もなる神を認めるのです。

しかしネブカデネザルのように、むしろを知った後にあえて高ぶり、自らを"神"とすることは世の人の常です。神の主権にあえて抵触するようなことをしばしば人々は言ったり行ったりしますが、その結果はしばしば高くつきます。心を病むのです。あえて神の権威に抵触することは自ら天からの裁きの声を下すことになります。そのようなお取り扱いを受けてようやくかたくななネブカデネザルも、なる神を拝するように導かれるのです。

私たちがこの世の中で生きる時に、時に"獅子の穴"に投げ入れられますが、あらゆる状況において勝利を得る秘訣は、神の主権を認め、神に頼り、神の介入を待つことです。そのためには知恵と思慮が必要であり、実際ダニエルはあらゆる能力で秀でていましたが、それは彼の生来の能力ではなく、「優れた霊が宿っていたからである」とあるとおり、私たちの内も自分の何かに頼らず、内に住んで下さっている神の御霊に頼るのです。この方こそがすべての知恵と思慮の源です。私たちの何かではなく、この御霊に由来する霊的な知恵と思慮に頼ることこそ勝利の鍵です(箴言3:5−8)。そしてあらゆることにおいて神に栄光をお返しすること大切です。神の栄光を奪い、自己に栄光を帰するならば、恵みからはずれ、むしろネブカデネザルやその子のような状態に陥るでしょう。


2.3.予言的部分

7章から12章はその後のユダヤの運命と終わりの日に起こるべき事柄の予言的幻です。バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマと続く歴史の中でユダヤ人が経るべき過酷な運命と黙示録に予言されている終わりの日が重なって預言されています。これらはヨハネの黙示録と対照するときにその意味が明らかになりますが、ダニエル自身も十分に分からなかったものもあり、また終わりの日まで封印されています(12:8−9)。

予言の内容は(1)4匹の獣の幻(7章)、(2)雄羊と雄やぎの幻(8章)、(3)エルサレムに関する70週の予言(9章)、(4)神の幻と天の戦い(10章)、(5)終わりの日の地的戦い(11章)、(6)終末の状況の予言(12章)となります。

特に70週の予言は救い主イエスの到来とその死の時期を正確に予言しており、また私たちは恵みの時代(異邦人の時代)に置かれており、それは69週と最後の1週の間の期間であり、まもなく最後の1週のカウントダウンが始まるであろう時期にあることを知ることは大切です(→「終末とは」、「終末の予言について」参照)。



3.神の全計画における意義

私たちも現在、を主と認めない異教の地に住んでおり、ダニエルと同じようにしばしば自分の人生をコントロールする立場にある人々からの脅威にさらされます。また世の動きはますます信仰から遠ざかり、神を認めずに狂気に落ち込みつつあります。そのような中で私たちが目を止めるべきはただなる神であり、あらゆる時に、いかなる場面でもその方がすべてをコントロールされていることを信じる必要があります。私たちの希望はただこの方にこそあり、目の前の上司やボスではありません。彼らは一時は栄えますが、所詮鼻で息をする存在であり、時が来て主の主権が行使されるとき、あっさりと朽ちていくのです。

むしろ私たちが口にする言葉、あるいは私たちの祈りが、実は彼らの命運をコントロールしているのです。私たちが神の主権に服し、天的権威を行使するとき、天の統治は地にもたらされ、神に対立する勢力は速やかに裁かれ、排除されることでしょう。私たちの人生をコントロールしているのは人ではなく、まことのなる神であることを堅く信じ、そこに立ち続けましょう。あらゆる環境においてを主とすることこそ勝利の鍵です。

ダニエルの物語を通してバビロンという当時の超大国の盛衰すら、なる神の御手にあってコントロールされていることを知り、神のご計画の実現のためにその主権によって神ご自身が介入されることを知るのです。そして究極的に私たちの頼む対象はこの主なる神であることを知り、異郷の地におけるダニエルの生き様とその上に働かれる神の主権にこそ私たちの希望があることを知るのです。

そして人の王国の栄枯盛衰の終わりには人手によらない一つの石の統治、すなわち神の子イエス・キリストの永遠の統治が確立するのです。これがダビデに約束された永遠の王権です。そのような人による統治の栄枯盛衰から、神の御子の歴史への介入、その十字架を経て教会時代が終わると、神による永遠の統治が確立する永遠をも透視した物語がダニエルの物語であり、また彼の見た幻なのです。あらゆる国民が主なる神を神と認め、その主権に服し、礼拝する時代が来るのです。その時私たちも彼と共に全地を治めるのです(黙示録2:26−28、5:10)。


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