寿町の魅力に思う −素でおれることの解放感−


■寿町に関るようになって8ケ月が過ぎました。この地が、世の中では、"最果ての地"とされているのに、私はここに来る度ごとにますます魅力を覚えるようになります。なぜでしょう。少し考えてみました。まずはここでのいくつかのエピソードをご披露します。ある聖日礼拝の最中、佐藤先生が、「みなさんはこれまで酒、煙草、ギャンブル、などなどに身をやつしてきましたよね。それらはみな虚しいことだったでしょう」と語られますと、突如声があがりました、「先生、先生、おれよ、そうなんだよ。きょう競馬ですっからかんよ!」。周りからはドッと笑い声があがります。

またあるバイブル・スタディーの時、私が担当だったのですが、一通り語るべきことを語り終え、質問を受けると、あるおじさんが一言、「おれ、質問、おれ、何言ってんだか、全然わからね〜、はははは・・・・」。またお祈りをした後、突如始まる因縁の付け合いと喧嘩、「ばかやろ、なめんじゃねー!」。と思うと、あるおじさんが講義を始めます、「古代ローマは最初はキリスト教を擁護していたんだぞ、しかし皇帝礼拝を初めてから、キリスト教は迫害されて、みんなライオンに食われたりしたんだが、結局はローマの国教になったんだぞ、てめー、知ってんのか、おれは西洋史勉強しかんな、この位は知ってんだぞ!」。極めつけは、こんな質問を受けます:「博士、一般相対論はその正しさが実証されたんでしたっけ?」・・・・(汗)

■寿町に来て最初の頃は、これらのエピソードにおののきを覚えましたが、現在、これらの逸話に出会うと、何故か心が緩むのです。正直に言って、なぜか、ほっとできるのです。それはここでは自分自身が"素"でいられるからでしょう。私は時にクリスチャンどうしのいわゆる"交わり"に窒息感を覚えそうになることがあります。特に聖書をよく知っていて、自分たちこそ聖書に従った正統な集会であって、教えにおいても実行においても何らの誤りもなく、自分自身も良心に従って、人の前でも神の前でも立派に証しができるといった匂いを醸し出している人々と触れ合う時に、特にある種の窮屈感と閉塞感を覚えます(注)。そのような方々と触れ合う時に、何か自分が枠にはめられ、何か彼らの物指しで計られ、品定めされているような印象を受けてしまいます。
(注)私は、いわゆる教団・教派や"名称のついた"普通の教会を否定しつつ、しかも"聖書に基づいて"互いに他を批判し合っているにもかかわらず、それぞれ自分こそが正統な教会(集会)であると主張しているグループを最低3つ知っております。果たしてどちらさんが本物であるか、私は判断するつもりもありません。

そのような場面に出会う時に、私が取る手段は、彼らの内にある私のイメージあるいは品定めの評価を、例えそれがよいものであったにしても、相手の期待を裏切ることになったとしても、とにかく壊してしまうことです。それまでそのような方々と維持して来た関りのあり方を、とにかくすべてご破算に戻してしまいたくなります。良いものであれ、悪いものであれ、そのような彼らの枠組みによる評価を受けている事自体が窮屈であり、ある種の窒息感と閉塞感を覚えてしまうからです。いわゆる"超正統派の行儀の良い霊的な模範的クリスチャン"こそは、私が大の苦手とする人々です。

■そうです、寿町の魅力はこの閉塞感あるいは窒息感がまったく感じられないのです。外見はみすぼらしく、臭くて、汚れていて、知性と品位がなく、道徳が無く、節操が無く、罵詈雑言が飛び交って、時に流血もあり・・・といった場所です。が、しかし、それが魅力なのです。何故でしょう・・・? 多分、自分が"素"のままでおれるからでしょう。クリスチャンはしばしば、聖書の深くて膨大な知識と、クリスチャン同士の理想的"交わり"のプロトコルを身につけますと、見かけ上、"立派"な証し人になり得ます。ソツなく、上品に、流麗に、きれいに、すまして、麗しいクリスチャンのあり方を身につけることができます。それによって周りの人々からの評価も受けます。しかし、私はしばしばそのような処では先の窒息感あるいは閉塞感を覚えてしまうのです。とにかくそのような枷を壊してしまいたい、そこからから逃れたいという深刻な葛藤を覚えます。

ところが寿町にはそれがないのです。馬鹿丸出し、開けっぴろげ、無造作、赤恥の展覧、自分自身の実際を隠すことなく、取り繕うことなく、ただそのままにしておける処、それが寿町です。惨めさもそのまま、痛みもそのまま、恥もそのまま、繕いなく、地のままに、飾らずに、とにかくすべてがオープン、これが寿町です。殺人も当たり前、恐喝・窃盗も当たり前、不法賭博も当たり前、アル中、ギャンブル中・・・何でもありの町、これが寿町です。自分の罪を罪としてそのままに開陳してしまえる処、これが寿町です。「先生、おれよ、今日競馬ですっからかん、がははは・・・」と聖日礼拝の最中に言える処、これが寿町です。

■しかし私を含めたラザロさんたちは、寿町においてこそ、ただただイエス・キリストの素晴らしさ・魅力を堪能できるのです。多分イエスが地上におられた頃、もちろん彼には罪がなく、聖くて、道徳的にも一点の曇りも無かった方ですが、イエスの周りに集まった人々はどんな人々だったことでしょう。今で言えば、寿町の住人ばかりだったのでないでしょうか。イエスには上記の窒息感や閉塞感を覚えさせるような要素がまったくなかったのです。私の師であるイギリスのColin Urquhartはよく言います、「本当のホーリネスは人に窮屈感を与えたり、人を排除するものではなく、人に解放感と安らぎを与え、むしろ罪にまみれた人々こそが近寄ってくるものです」と。イエスはそのような雰囲気を醸し出していたのです。

佐藤先生がよく引用される聖書の箇所に、イエスと共に十字架に付けられた二人の強盗のうちの一人が改心する場面があります。「イエスよ、私を思い出して下さい」という言葉に、イエスは「きょうあなたは私と共にパラダイスにいるであろう」と答えます。すばらしいのはその強盗がパラダイスにいるだけではなく、"私と共に"とある点です。イエスは彼と共にいることを良しとされるのです。この極悪人は、最後の最後で人生の大逆転をします。彼は十字架からおりて、聖書の深い霊的学びをしたのでもなく、教会や集会を建て上げるための奉仕をしたのでもありませんでした。彼は十字架につけられて、裸で何もできず、無力にあって、惨めな様でつるされていただけでした。しかしその彼にイエスは「あなたは私と共にパラダイスにいる」と声をかけられたのです。寿町ではこの場面がそのままに展開します。

ラザロさんたちは、裸のままで、イエスの身元に来ています。イエスは彼らにただ「私はあなたと共にいます」と語って下さるのです。枠のはずされた寿町では、聖書の霊的知識とか、お品の良いクリスチャンの"交わり"とか、正統な集会のあり方だとか、そういった窒息感と閉塞感をもたらすものはまったく役に立たず、ただただ病んで苦しんでいる魂に触れるイエスの言葉のみが生きていて、死んでいた人を再生させ、真に尊く価値あるものと感じられるのです。(2000.04.01)


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