論理と美しい情緒

繊細な霊的感受性の回復の必要性
今月の『学士会報』に数学者の藤原正彦氏が興味深い論考を書いていた。世の中に論理的に正しいものは山ほどあるが、その論理の連鎖の出発点を再確認する必要があるという。

数学は学問の女王と呼ばれ、一点の論理矛盾も許されない体系であるが、その出発点は、実は、情緒である。「多変数解析関数論」で有名な世界的数学者岡潔氏は「数学は情緒である」と言っている。数学で論理体系の出発点は「公理」と呼ぶが、ここの選択に情緒(美的感覚)が必要になる。この選択を誤ると空疎な体系ができる。

例えばユークリッド幾何学では「平行線は永遠に交わることがない」が、これを「交わることがある」として新しいリーマン幾何学ができ、これがアインシュタインの相対論に用いられ、物理的空間がそのような構造をもっていることがわかった。天才はこの公理の選択においてある種の直感(情緒・美的センス)を有している。

藤原氏はこの混迷の現代において情緒に触れるもの、美的センスに触れる公理を選ぶ必要があると言われる。99%は論理であるが、1%は情緒である。そしてこの美しい情緒による1%が全体を決める。この1%の回復を藤原氏は主張している。そして優れた理論体系はそれ自体がきわめて美しく、かつ単純である。私は高校時代にオイラーの定理から

- eiπ = 1

を"発見"して、自然界の基本定数(1、eπi )がすべてここにお互いの関係性にあって集約されていることに深い感動を覚えた経験がある(これは実にスゴイこと、おそるべき不思議な式なのである。いまだに見れば見るほど「何故ーーーっ」とうめいてしまう)。

今日クリスチャンの間においても論理的に正しい議論は山ほどあり、各分野のセンセイたちが互いに口角泡を飛ばしている。しかし美的センスに触れる情緒的にシックリするものはほとんどない。どれもある種の雑音と言うか、違和感を覚えるものばかりである。

神の創造は美しい。クリスチャンはこの神の霊を宿している。内側の霊のいのちの感覚により、さらに繊細な感受性を養うことができるはずである。今日、私たちを支配するものは"正しい聖書解釈"や"論理的整合性のある神学"ではなく、1%の美しい霊的感受性であるべきだ。そしてそれは理屈を超えて、自ずとしっくり共有できるはずのものである。日本人は本来自然に対する感受性や心の機微に長けていた(これがアニミズムになるわけだが)。日本の伝道の鍵はこの琴線に触れることであろうと私は感じている。(2003.09.03)