豚に真珠

金森一雄

■富士銀行グローバル審査第二部長。本稿は、2000年7月30日のVIPクラブ三田でのあかしを平易にまとめたものです。




1. はじめに

ここに参集された皆さんようこそいらっしゃいました。心から歓迎いたします。また、VIP三田の集会にお招きくださった神様にごいっしょに感謝したいと思います。私は、毎月最終日曜日の午後6時から始り、奥様方自慢の手料理のサービス付という、VIPクラブの中でもユニークで特に神様から祝福されているこの集会が、いつも喜びあふれる賛美をもって開催されている様子をいつも羨ましく思っていました。

VIP三田のリーダーは、「遠山の金さん」こと金光石さんですが、私も日本の金さんと呼ばれているのをご存知ですか。「いつでもどこでも神様感謝します。ハレルヤ!」と「元気印(パワーマーク)の金さん」で通っています。私と金さんは同じ「金」の姓を持ち、同じ父親を持つ兄弟です。そしてこの中の多くの方が私と兄弟です。何故なら、この天地を創造された神様が私の父であり、お父チャンと呼んでいるからです。今日は私のあかしは、私の父が私にしてくださったことの自慢話ですがお聞きください。


2. 豚に真珠

今日のタイトルは「豚に真珠」です。イスラエルでは、豚は汚れたものとして忌嫌われており、新約聖書のマタイの福音書第7章6節には次のような記載があります。この箇所から、「豚に真珠」というタイトルを選ばせていただきました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから(マタイ7章6節)。

この聖書箇所の主役は何と言っても豚です。最近の日本では豚までペットにしていますが、どうも豚と言うのは聖書の中では良く言われていません。しかし、聖書の神様であるイエス・キリストに出会う前までの私は、この豚のようなものだったと言えます。すなわち、美味しいものを沢山食べて、眠りたい時に寝て、我が物顔で立ち振る舞っている自分の姿を思い浮かべます。これは、豚が豚小屋の中で我物顔で振る舞っているのと同じようなもので、現代社会の枠組み(檻)の中で自分が良かれと思ったことを行っていたにすぎません。自分では、この社会の教育制度や社会制度は正しいものだと思っていました。そしてその中で自己発見と言うか、自己実現を図ることが大切だと確信していたからです。現代社会の枠組みと言うのは、豚の檻と同じ様なものではないでしょうか。檻の中で、生きる目的も分からず、自分の死の時期について考えることもなく、ひたすらやがて確実に到来する死に向かってブーブーと唸って歩んでいたような気がしたのです。

具体的に自分の人生を振り返ってみました。「働いている目的は何ですか」と聞かれれば「世のため人のためです」と格好良く言うこともできます。しかし本音で申しあげれば、バブルに染まった白亜の殿堂らしきローン付き建売住宅や、愛車のクラウンを気張って購入したから働いているのですし、ミッションスクールで高校二年になる娘の雅葉が、今年の夏、一ヶ月間の米国留学する費用を支払うため、あるいは、愛妻の涼子に素顔が美しいとおだててノーメイクを勧めるのですが、本人は納得せず美しく見えるのだろう白壁化粧品を購入するからなのです。また、愛犬マルチーズのシルクが好むペットフード購入のために働いているのです。そして自分のためにと言えば、ゴルフやカラオケにと仕事中心の人間関係の交遊費を稼ぐためでした。こんな風に、「よく学び、よく遊べ」を旨として、昼夜を問わず仕事と遊びの区別もなく、典型的な日本人ビジネスマン「ワークホリック」(仕事中毒症)をしていました。

1980年代になって、「ハーバード流経営学よさようなら」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言って日本中が奢り高ぶる状況になりました。私は富士銀行で海外に支店を設置したり、海外に派遣する人数を決めたり、海外で稼ぎ出す予算を策定するセクションに配属されました。日本の社会も私自身も「絶好調!」と言って驕り高ぶり、謙遜さとは程遠いところにいた時に、神様は私に具体的な救いの手を伸ばしてくださいました。今から思えば、「豚小屋から脱出してみませんか」という神様からのお誘いでした。

ある日、入社したばかりのオーストラリア人のスタッフC君にいきなり「金森さん、神様っていると思いますか。」と質問されました。私はびっくりしました。「俺が君のボスだ、俺を神様だと思え。」と言って憚らない私でしたし、神様についてそれまでに考えたことがなかったからです。さらに彼は私に日本語の聖書をプレゼントしてくれたのです。これが私の聖書との初めての出会いです。その後10年近くを経て、私はイエス・キリストと個人的に出会うことになります。我が父として私の身体の中にイエス様をお迎えし、冒頭でお話した通り、我が尊敬する韓国の金さんとも、皆さんとも兄弟となったのです。


3. 真珠をくださる神様

このような自分自身の体験から、現在の私は、何よりも職場を通じてイエス様のことをお伝えする働きに重きを置いています。私たちビジネスマンクリスチャンに期待されていることは、日頃の仕事を通じた人間関係の中で、明るく喜びながら小さなあかしを積み重ねていくことです。キリストの大使である私たちビジネスマンキリスト者の責任は本当に重大です。

大使となった私たちには、天のお父様はその印として真珠をくださいます。そして私たちは日々、阿古屋貝のように自分の身体の中にある真珠の艶出し作業をしていくことが求められるのです。マタイの福音書第13章45、46節には、以下のような記述があります。天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

イエス・キリスト信仰を持つことが、この真珠を見つけたことになります。真珠の価値の分かる者となった私を、私の父は豚小屋から連れ出し、真に自由な者としてくださいました。ですから今の私は、このイエス様のお陰で「豚に真珠」などとは言われない者にさせていただきました。皆さんもこの真珠の価値が分かる人になりませんか。

今月の上旬に、落雷をともなう一時間に80ミリを超える大雨が降ったのを覚えておられますか。観測史上2番目だったそうです。私はこの時、4時間も上野駅構内で発車間際の電車の中で過ごしました。1時間ぐらいして、架線事故が発生したので復旧見込みは3時間後との放送がありました。周囲の通勤客が携帯電話を駆使して右往左往。駅員に代替手段を問い合わせたり、大声で苦情を言ったりしていました。

こんな風にして多くの人々が私の目の前を立ち去って行きました。普通なら私もいらいらして大混雑の私鉄の振替え輸送を利用して家にたどり着いていたことでしょう。しかし、この時は逆転の発想をしてこの事態を受け止めて対処しました。「落雷は神様からのプレゼント。どう動き回っても大混乱・大混雑。聖書でも読んでいよう。」と考え、いつ出発するか分からない電車の座席に座って、実に4時間の聖書通読時間を持つことができました。

この時に、先ほどのマタイの福音書にある「真珠を見つけた商人」の箇所から、「30年近い社会人生活をしてきたのだから、持ち物を全部売り払っても良いほどの真珠を、信仰以外にも何かきっと獲得したものがあるはずだ。それは何だろう。」とじっくり考えてみました。皆さんも考えてみませんか。私がその時思い付いたものは、ローン付の家や車ではなく、勤務先の富士銀行でもなく上司の方でもなく、大学でもなく恩師でもなく、教会の牧師でもありませんでした。皆さんは如何ですか。これは私たちが物事の判断をしていく際の優先順位の問題ですから、とても大切なことなのです。ちょっと考えて見てください。皆さんにとって、信仰の次にすべてのものを投げ打っても欲しいと思うもの、かけがいの無いものとは何でしょうか。私はその時、最愛の妻涼子の顔が浮かんできました。


4. お取引先の社長の話

先日、会社が危急存亡の危機に直面しているある企業の社長さんから次のようなショッキングな話をお聞きました。

「私は55歳、仕事人間としての人生のゴールを60歳までと設定した。残された期間を精一杯この揺れ動く会社のために捧げることにし、昼夜を問わず全力投球したいと思った。妻とは高校時代からの付合いの友達夫婦。妻は、何でも100%夫と共有したいタイプ。私がこれ以上、仕事に傾注して行くことに理解を示さない。私は経済的にもずっと妻の両親の面倒まで見ており、夫として合格点をいただけるはず。このような状況の中で、中途半端なことは嫌いな性格なので、私は自宅もお金もすべて妻と子どもに渡して離婚した。やましいことはない。社長としての生き様、仕事への忠誠を示した。」

私は、ここまで追いつめられたこの社長に対し、何と答えたら良いのか言葉を失いました。私たちの人生における選択の優先順位は、一番神様、二番妻と家庭、三番仕事でなければなりません。ところがこの社長のように日本のビジネスマンの多くは、一番が仕事、二番にゴルフやカラオケあるいはパチンコといった気分転換を求め、ようやく三番に家庭。そしておまけに妻の順。さらには、神様は無しとなっているのです。こんな状況のままであれば、まさに「豚に真珠」となってしまいます。

私たちは、いつもこの人生において、何だかんだと分かりもしない先のことで思い煩い、慌てふためきがちです。会社が倒産するかしないか、本当に重要な問題です。ついこの間、お取引先のそごうグループの再建支援をさせていただこうとしていました。倒産させてしまったら、従業員5万人、仕入れ業者1万社への影響が大変だ。税金の無駄遣いもできないと考えたからです。しかし、その企業や役員の失敗に対する責任の取り方が国民の最大の関心事となり、皆さんご存知の通り倒産してしまいました。

雪印乳業の問題はどのようにお考えになりますか。三菱自動車のリコール隠蔽問題についてはどのようにお考えになりますか。私たちが仕事を進めて行くときに、奢り高ぶっているときにとんでもないことが発生しがちです。そしてその時に、どのように対応するかで企業の生死が、ビジネスマンとしての真価が決まりがちです。そうした時の、選択の優先順位が決まっていることが、物事を単純化させて正しい判断をすることに役立ちます。何のために物事を行うのか、判断の原点を忘れてはいけません。それさえ間違わなければ、あとはどちらでもなんとかなります。

神様は私たちに対して、イザヤ書第43章4節で「私の目にはあなたは高価で尊い」とおっしゃっています。私たちは豚ではなく、神様が愛してやまない人間で物事の優先順位を自ら決められるのです。2000年前、神様は一人子イエス・キリストをこの世界に送られ、私たちの罪深さのゆえ私たちの罪を贖い、私たちに罪を悟らせるためにこのイエス・キリストを私たちの手で、私たちの判断で十字架刑に追いやるということまでしてくださいました。ここに私たちには決してできない神様の愛を見出すことができるのです。神様は私たちを、あなたを愛してくださっているのです。

ですから、私たち人間は自らの選択でイエス・キリスト信仰を持つことができるのです。そして天のお父様を、お父チャンと遠慮なく呼べるようになるのです。この信仰を持った人間には、なんの代価も必要とせず真珠をくださいます。そして、自らの判断として妻や家庭を大切にするようになるのです。

キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです(Tテモテ1章15節)。


5. 謙遜な者となること

こうしてキリスト者になったものの、私たちの社会生活においては、絶えず人間関係のトラブルに見舞われます。だれでもその解決を求めるのですが、なかなかうまくいきません。皆さんも今、何らかの人間関係のトラブルに巻き込まれていませんか?

人間関係の和解のキーワードは、私たちの中にある自己中心の心を押さえることです。私たちに必要なことは、先ず主の前に砕かれ、謙遜な者とさせていただくことです。そうすれば、人の前でも真に謙遜な者となることができるのです。こうして私たちの世界に必ず付きまとう難しい人間関係が改善されていくのです。このような抽象論で申しあげても、お分かりになりにくいでしょうから、理解し易いように小学生の書いた作文を紹介させていただきながら話を進めさせていただこうと思います。「うちの家はみんなが悪い」という作文です。

きょう私が学校から帰ると、お母さんが「お兄ちゃんの机を拭いていて金魚蜂を落として割ってしまった。もっと気を付ければ良かったのに、お母さんが悪かった」と言いました。するとお兄ちゃんは「僕が端っこに置いておいたから、僕が悪かった」って言っていました。でも私は思い出しました。きのうお兄ちゃんが端っこに置いたとき私は「危ないな」って思ったのにそれを言わなかったから、私が悪かったと言いました。夜、帰ってきてそれを聞いていたお父さんは「いや、お父さんが金魚鉢を買うとき、丸い方でなく四角い方にすれば良かったなあ。お父さんが悪かった」と言いました。そしてみんなが笑いました。うちはいつもこうなんです。うちはいつもみんなが悪いのです。

この作文を読んで、なんてすばらしい聖家族なのだろう、今日から私たちの家族もこういう姿を目指そうと家族で話し合っていた翌日のことです。高校二年生になる娘の雅葉が、アメリカ留学すると言うので、準備の整ったスーツケースを私が車のトランクに積み込んでいました。玄関から駐車場まで運ぶ際、スーツケースの角をぶつけて玄関の鉢植えをひっくり返してしまい、鉢は壊れなかったものの中の土が散乱してしまいました。妻の涼子はすかさず私に「いつもあなたは周りが見えないのだから。」とお小言を言います。私は反撃して「昨晩あの作文を読んで、この家族関係は羨ましいなとか見習いたいなと言っても、実践するのは難しいね。」と嫌ごとを言いました。すると娘の雅葉は「ママは私が小学生のときに玄関の植木鉢を壊したとき、『こんなところに置いたママが悪かった。』と言ってくれたことがあったわ。自分は怒られると思っていたのでびっくりしたの。」とフォローしていました。

どうやら、キリストの香りを放つクリスチャン夫婦を目指したいと願っている私たちは、合格点をいただけないようです。それなのにまだ洗礼を受けていない娘の方が、聖家族のビジョンをしっかり抱いているようです。我が家の状況はこんな所ですが、皆さんのお宅では如何ですか。私たち夫婦に託されているキリストの香りを放つファミリーの創造は、こんな風に試行錯誤の連続です。


6. 現実の職場での苦闘

頭で理解したことと実際に心で感じてしまうことに相違が出てしまうのが私たち人間です。また、私たち男は一歩家を出たら7人の敵に囲まれると言いますから大変です。こうした中で働く、私の不信仰さを告白させていただきます。

今年の4月、例年通り昇格者の発表がありました。そのリストの中には、営業の第一線で働く親友の名前が並んでいましたが、私の名前を発見することは出来ませんでした。自信過剰気味な私は、「どうして?」「何がいけないの?」といった気持ちが自然に心の中に湧いて来ました。

常日頃から、企業の財務面の手術を行う現在の自分の職務について、「キリスト者ビジネスマンの私に神様が与えてくださった素晴らしい仕事で心から感謝しています。」と周囲の人にいつも喜んで話しています。それなのに、ちょっと自分の期待や目論見とは異なった事態が発生すると、知らず知らずのうちに「自己中心という原罪」が表面に現れて不平・不満の気持ちがよぎってしまうのです。悲しいかな、私は信仰の薄いビジネスマンクリスチャンなのです。

しかし、この時も私の信じる神様は私に励ましを与えてくださいました。その日聖書を読んだ箇所は創世記第15章でした。

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15章1節)

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創世記15章5、6節)。

この聖書箇所で神様は、「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」そして「あなたの受ける報いは非常に大きい。」とアブラムに約束されたように、現在に生きる私たちにも語ってくださっています。ですから、真珠を抱いた我々は何をも恐れず、思い煩うことはないのです。

また、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」とおっしゃるのです。私には、神様の作られた星の数を数えることは出来ません。それなのに、星の数を数えるようなこと、すなわち「ああでもない、こうでもない。」とか「ああすれば良かった、こうすれば良かった。」と分かりもしないことを考えていたことに気付かされました。聖書の神様は、ただ「天を見上げて歩みなさい。」と私におっしゃているのです。「神様の栄光を現すことが出来ますように。」と天に向かって祈りつつ、上を向いて歩けば良いと教えてくださったのです。

ここで一つ皆さんにお願いがあります。実は私と大韓航空の金さんは、ともに50歳を超えて現役生活の最終コーナーに差し掛かっています。今年の2月、金さんと私は二人で「主の栄光を現すために、金さんは大韓航空で私は富士銀行でそれぞれ重役になれるよう主よ用いてください。」という昼食祈祷会を行いました。私たちが、更に主の栄光を現すために用いられますようお祈りしていただきたいのです。また、ともに主の栄光を現すために私も今より更に高いポストに向かって歩みたいと祈って欲しいと思われる方は手を挙げてくださいますか。この社会で大いに用いられて、沢山給料もいただいて感謝の献金をさせていただけますようごいっしょにお祈りを捧げましょう。

私たちビジネスマンは、日々職場でいろいろな困難に出会います。しかしその都度、聖書のことばからその解決策を得ることが出来るのです。そして、「神様この問題を解決してください。」とイエス様にお祈りするのです。私たちが日々聖書を読み、イエス様にお祈りするというサイクルの中で、「その時」を神様に委ね、聖霊なる神様の導きに従って歩むと、本当に平安に満たされます。皆さんも、この平安を味わってみませんか。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です(Uコリント9章8節)。



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