信仰が揺らぐ時に


「もしできればと言うのか。信じる者には、どんなことでもできる」(マルコ9:23)。

わたしどもの一つの集まりで、一人の愛すべき黒人の老女が、ある青年の持ち出した「必要な助けを受けるために、どうして主を捕らえまつるか」という質問に答えたものにまさる立派な信仰の定義はない。彼女は独特の身振りで、その指を青年に差し向け、力を入れて「あなたは主がすでにそのことをなされたから、それは、もはやできていることを信じるべき所に来ているのです」と力強く言った。

わたしたちの多くにとって最も危険なことは、わたしたちが、主に一つのことを求めた後、それができていることを信じないばかりか、なお神を妨げようとしていることであり、そしてまた他の人にも神の妨げをさせていることである。しかも神がどんな具合にそのことをして下さるかを単に見ようとして待っている。

信仰は神の「しかり」に対して「アーメン」を付け加え、その手を離して、神にそのわざの完成を委ねる。これを聖書の光によって見れば,「あなたの道を主に委ねよ、主に信頼せよ、主はそれをなしとげ」ということになる。

ただ、御言葉によって神を捕らえ、祈りのきかれしによりて神をほむ
かくて主よりわが答えを求め、われは捕らえ、神は引き受けたもう

積極的な信仰はまだ事が成就されずとも、その約束のために神に感謝する。神の約束は現金と同じである−マシュー・ヘンリー

受身の信仰は御言葉を真として受け、少しも動くことなし
働く信仰はわざを始め、これによりて御言葉の真なるを知る


受身の信仰は言う、われこれを信ず、神の言はすべて真なりと
神は能わざること成さざることを語りたまわず、
神は「進め」と命じたまえれど、道は閉ざされたり
されど水分かれなば、われはカナンに入るべし
「起きて歩め、床を取り上げよ」と主は命じたもう、長らく萎えし手に「その腕を延べよ」と言いたもう
われ少し強からば確かに立ち得ん、癒しの感じあらばわれ他の手を用いん
されど神は力ありて何事をも成したもうと知る
すべての約束はやがて真となり我に来るを知る


働く信仰は言う「我信ず我はすべての約束を握る、われこれを受くる時、約束は現実となると知る
われ水に踏み入れしに道は開け行くを見たり、進み入りて地を獲よ
さらば何物も汝を妨ぐまじ
われ命令によりて立ち喜びに満ちて真っ直ぐに歩む
わが手はいたく萎えたれど、伸ばしなば回復せん
真なる約束の他、われ何かを求めん、『徴と異なる工(わざ)』をわれ求めず、また矛盾をも感ぜず
われ知る神は力ありてすべての事喜びてなしたもう
われ信ず、すべての約束は今この時に真となるを」


受身の信仰はただ日の輝く時においてのみ光を受けて神をほむ
進み行く信仰はいと暗き夜にも神をほむ
汝の信仰はいずれぞ

■出典:「荒野の泉」、カウマン婦人著/山崎亮治訳、福音文書刊行会、pp.63-64


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