無力さを覚える時に



悩んでいた魂が、あがないの教えを受け入れ、救いは主イエスを信じる信仰によるという偉大な真理を学んだ後、なおこのよきものに対して無力だという感じに非常に悩まされることは、めずらしくありません。多くの人々が、「わたしには何もできない」と言って嘆いています。この人たちは言い訳をしているのではなく、毎日重荷と感じているのです。できればやりとげる人たちです。

この力の不足に対して、救いの計画の中で何か備えがあるでしょうか。あります。神の仕事は完全なのです。その仕事は、ありのままの私たちに手をつけはじめて、終わりまで私たちからは何も要求されないのです。よきサマリヤ人は、傷を受け半死半生で倒れている人を見たとき、自分で起き上がってロバに乗り、宿屋に行きなさいとは命令しませんでした。そうではなく、彼はその男のいるところに来て、介抱し、抱き上げて家畜に乗せ、宿屋まで運んで行ったのです。主イエスは、みじめな低い状態にあるわたしたちに、ちょうど同じことをして下さるのです。
わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時至って、不信心な者たちのために死んで下さったのである(ローマ5:6)。

ここに手の施しようもないと分かっている者が救われています。−主イエスの仲立ちによって救われています。わたしたちは、手の施しようがなく、それは最後の線まで来ています。わたしたちは、自分の救いに役立ちそうな力は少しも持ち合わせていませんでした。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」(ヨハネ15:5)という主のことばは、そのとおりに事実なのです。その愛は、わたしたちが「罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)であったときにさえ、働いたのです。死んでいるということは無力以上にひどいことです。

あわれな力のない罪人が、心にとめて希望の基としてしっかりすがらねばならない一つのことは、「キリストは、時至って、不信心な者たちのために死んで下さった」という神の保証です。このことを信じて下さい。信じるならば、すべての不可能は消えてしまいます。手で触るものが全部黄金になってしまうあのマイダス王の話(訳者注:ギリシャ神話)のように、信仰の手の触るものが全部良いものに変わるというのは事実です。信仰が働き出すと、今まで欠けていたこと、弱点だったところが恵みとなるのです。

この偉大な、恵みにあふれ、栄光に輝く事実をあなたの霊にかたくすえなさい。そうすれば、あなたの考えはすべてかんばしい香りを放ち、自分には力がないのに、主イエスが自分の力となり歌となり、救いにさえもなって下さったことが分かり、喜びに満たされるでしょう。

■出典:「ただ恵みによって」、C.H.スポルジョン/羽鳥明訳、いのちのことば社、pp.88-93(抜粋)


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