心が責められる時に



そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ・・・全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか(ヘブル10:22)。


私たちが至聖所に入りゆく時、尊いイエスの血潮以外のどんな根拠をもって入るというのでしょう?ここで私は、自分自身に対して真実に問う必要を覚えます−果たして、私は、神の御臨在への道をその血によって開こうとするのか、それとも何か他の根拠をもってするのか、と。私が「血によって」と語る時、果たしてそれは何を意味しているのでしょうか?すなわち、私は、自分自身の罪を知り、きよめの必要を告白し、主イエス・キリストの完成されたみわざに基づいて、神の御臨在に至ることを意味します。私はイエスのなされたことに基づいてのみ神にお近づきし得るのであって、何か私の達成、例えば、きょうは特に親切で忍耐強くあり得た事とか、主の御用のために何かをなし得た事などによるのでありません。

誤解をおそれずに言いますと、私は、ある人たちが、「きょう私は少なからず配慮深くあった、きょう私は物事をうまくなし得た、だからきょうは神によりお近づきすることができ、祈りもうまくできるはずだ!」、と考えているのではないかと危惧します。否、否、違いますきよめられた良心は決して私たちの達成によるのではありません。それは主イエスが流された尊い血潮による贖いのわざのみによるのです!

注:何か失敗をしたり、罪を犯したりする時、私たちは良心に傷を受け、神から分離され、絶望感を覚えますが、その際も、自分の何かでなく、イエスの血のゆえに良心がきよめられるのです。私たちはこの真理を頭では良く知っています。しかし私たちの約8割の霊的葛藤や信仰上あるいは実際生活上の悩みは、このことを自分の心のレベルで受け止めていないために生じております。ほとんどの悩みや苦しみは、このきよめられていない良心の問題に基づくケースが多いのです。これが私たちと神との間に隔てをもたらし、問題の実際的解決を先送りします。とがめのない、きよめられた良心に基づく神との完全なる一致と交わりがあれば、私たちの個々の問題はほとんど解決したのと同じです。


出典:A Table In The Wilderness -Daily Meditations From The Ministry Of Watchman Nee -, Watchman Nee, Victory Press, Sep. 13th


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