安息が欲しい時に




・安息の欠如の原因(ヘブル3:16-19):

彼ら(イスラエル人)は不信仰の故に入ることを得なかった。私達の中の何人にも不信仰の悪しき心あらざるように心せよ。何事も皆信仰にかかって居る。私達に語り給う神に対する信仰、誉むべき御子を信じる信仰、即ち彼の働き給う其の神たる御力、一切を透徹しての接近を信じ、彼の真の人性と彼が私達のために全うし、点より分与し給う天的生命を信じる信仰、又私達の衷に住み、私達の衷に神の能力にています聖霊を信じる信仰。信仰をして私達の霊魂の習性、私達の生命の呼吸にしてあらしめよ。

不信仰の故に。それは私達の何故かの問いに対して、イエスの答え給うところの汝等不信仰の故である。私達をして霊的生活に於ける凡ての不従順と失敗、すべての薄弱と困難の根は不信仰であるとの深い確認を養わしめよ。私達の祈祷の聴かれぬことにつき何か或る説明せざれざる秘密があると考うべきで無い。神を信頼せず、それ自身を全く神に委ね奉らず、神をしてその約束し給えるところをなさしめ奉らぬは単に不信仰である。神よ、不信仰より私達を救い給え。


・信仰の安息(ヘブル4:1−3):

信仰はつねに私のために他の方の無し給うところに安んじ休むことである。信仰は自己にも自己の努力にも助けを求むることを止め自らの乏しきことと弱きこととに煩わさるることも止め、一切を引き受け給える全能者の全能に信頼して安んずる。主イエスに信頼せよ。荒野を止めこれを見棄てよ、彼に全く従い行け、彼こそは安息である。

誰も信仰の安息のこの生活は唯恵まれた少数者の為のみのことであると想像することあらざれ。余が極力すべての読者に感ぜしめんとする処は、神はあなたを召し給う、然り、この安息に入るべくあなたを召し給うということである。若しあなたが自分は改心して居るという考えで満足して止まるならば、それはあなたの霊魂の危険を冒すことであり得る、かくしてあなたはイスラエルと共に荒野に亡ぶことがあり得る。「わたしは怒って彼らをわたしの安息にはいらせることはしないと誓ったように」。

若し神が実にすべての仁慈と祝福の源泉であるならば私達が神に近づけば近づく程、神よりのものを多く持てば持つ程、私達の喜は一層深く一層満るであろう。神が私達を神の安息に入らしめんと企て給う時に如何なる犠牲を払うともキリストに委譲することを欲するで無いならば、其宗教は、単に刑罰を免れ、将来天国をさえ確保できれば、なるべく神のものを少なくもつことに満足しようとする身勝手なものであるということを恐れる理由を持たぬであろうか。


・神の安息(ヘブル4:4−8):

外部的活動の中にても深い静寂を保つことは信仰の生活の最も美しき特徴の一つであり又これを助くることの一つである。神の臨在の中に止まることを求め、周囲の事物に余り多く委譲せざる聖き静寂を修養せよ。

この安息は神の安息、神との交わりのうちに見出される。彼の見給う凡て、彼の感じ給う凡て、彼の耐え給う凡てを考えよ、彼のそれをもってすべてを教導し給う神たる平和と忍耐を思え、そして忍耐と信頼と彼に安んずることを学べ、すべての中にすべてを働き給う神、その御目の前に善とし給うところをあなたの中に成し給う唯一の神として彼に信頼し奉れ、そしてあなたはあなたのために又あなたの衷に、彼をして一切をなさしめ奉ることによって完き安息をもつであろう。

神は超自然的な、理解し能わざる御方である。私達は理性感覚を超越した仕方で彼を知り奉ることを学ばねばならぬ。その道は信仰の礼拝と服従の深い謙卑である。此等を通して聖霊は私達のうちに神の御仕をなし給うのである。

すべて入るということは私達が以前居ったところから出ることを意味する。すべてを棄てて神の聖前にまでイエスに随従し奉れ。

私の霊魂よ、大いなる神の此御言に耳傾け、彼の言うべからざる愛をしてあなたを引かしめよ。曰く「今日わが安息に入れ」。


・業よりの安息(ヘブル4:9−10):

我にあらず、ただキリスト。これは人が己の業から休むところの信仰の安息である。回心せる人にとりては、キリストに非らずただ我である。弱い怠慢なる基督者にとりては我とキリスト、即ち我、第一で、その欠けたるところを満たすためにキリストである。そして熱心さが増してくるとそれがキリストと我となる。即ち第一にキリストなれどなお第二に我があるのである。されどキリストと共に死にたる人には我に非らず、ただキリスト、即ちただキリストのみ、キリスト一切となる。かかる人はおのが業を止め、キリストその人のうちに住み給う。これが信仰の安息である。

神はその民のうちに住むことにつきて、「これはとこしえにわが安息所である。わたしはこれを望んだゆえ、ここに住む」(詩132:14)と仰せ給う。亦これを言うことを恐るる勿れ。それは、御子の御業に於て、イエスとイエスに属する凡ての者に対する其御愛に於て御悦び楽しみをもつ神の安息である。それはイエスの其成就し給える御業に於て、宝座に座しつつ、聖父の愛に安んじつつ安息し給うその安息である。それはイエスに対し神に対し、神の愛に対する私達の信仰と愛の安息であると。

■出典:「至聖所−ヘブル書講解−(上巻)」、アンドリュー・マーレー、バックストン記念霊交会、pp.171-190


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