不当な扱いを受ける時に



兄たちは彼を銀20枚で売ってしまった。それは、手間隙のかからない仕事であった。やがてヨセフは、足かせをはめられ、異国へと向かう奴隷の長い列の中に自分の姿を見出すことになる。ある意味で、これは死よりもむごいと言えないだろうか。苦悩が引き続き、彼の若い心を引き裂いたに違いない。父親に最後のことづけだけでも届けたいと、どんなに願ったことであろう。しかも、このような考えに混じって、彼が礼拝することを身につけた偉大な神についての不思議な思いが頭をもたげたことであろう。このことについて神はどのように言われるのであろうか。

彼はその時、後になってその日を愛の摂理の鎖の中でも最も慈悲深い輪の一つとして振り返り、「私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神は命を救うために、あなたがたより先に、私を遣わして下さったのです」(創世記45:5)と言うようになれるとは、夢にも思わなかったことであろう。歳月が経つにつれて、神秘に包まれた暗い出来事を回顧し、以前には人の悪意と残忍さだけしか目に映らなかった場所の神の御手を見ることができるようになれるとは、何と喜ばしいことであろう。私たちの人生のすべての暗い通り道についても、このように言える日が、きっと来るに違いない。

ヨセフは兄たちに裏切られた。イエスは友人に裏切られた。ヨセフはお金で売られた。私たちの主も同様である。ヨセフは、奴隷になる捕らわれ人の列の中にいた。イエスは、咎ある者と共に扱われた。ヨセフの兄たちの犯罪は、神のご計画を成就させ、イエスを十字架につけた者たちの悪の手は、明確な神のご目的と予知とを成就させたのである。

神は「人の憤りまでもが、あなた(神)をほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでもを身に締められ」るようにされる(詩篇76:10)。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょうか。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と計り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)。


■出典:F.B.マイヤー、「奴隷から宰相へ-ヨセフの生涯から」、いのちのことば社、p.p.31-32


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