真の慰めが欲しい時に



真の慰めは、ただ神においてのみ求めるべきこと

1.私が自分を慰めるために、望むなり考えるなりでできる物事は、何一つ、この世で期待することではなく、後の世に期待するものである。たとえ私がこの世の慰めをひとりみな手に入れ、またあらゆる快楽を味わうことができたにしても、それが長く続かないのは確かである(マタイ16:26)。それゆえわが魂よ、貧しい者らの慰め手、虔ましいものらの護り手である神においてほか、お前は十分な慰めを受け、また申し分ない力づけを得ることはできまい(詩篇77:1-2)。それゆえ、わずかなものを期待しなさい、わが魂よ、神が約束されたことを期待しなさい、そうすれば、お前は天であらゆるよいものを満ち溢れるほどに得られるだろう。ところがもしお前が、あまりむやみやたらに現世のものを求めるならば、永遠な、天上にあるものを失うことになろう。この世のかりそめなものは使うだけにし、願い求めるのは永遠のものにしなさい。どんなによいものにしろ、かりそめなものにお前が飽き足りることは不可能なのだ、というのも、お前はそれを楽しむようには創られていないからだ。

2.たとえあらゆる神の創りたもうたよいものをお前が得たにしても、お前はそれで幸いな、祝福されたものにはなれないであろう。ところが、万物を創りたもうた神においてのみ、お前のあらゆる幸いと祝福とは見出されるのだ(知恵書2:23)。だが、それも、この世を愛する、愚かな人々がそう想ったり、賞賛したりするようなものではなく、キリストのよい信者たちが待ち望むもの、霊的で、心の潔い、その国籍が天にある人々が、時おり前もってこの世で味わうようなものなのだ(ピリピ3:20)。人間による慰めは、ことごとくみな虚しい、短いものばかりだ。祝福された、真実な慰めというのは、人が胸のうちで「真理」によって授けられるものである。信心深い人は、どこにいても自分の慰めとしてイエスを一緒に伴っていく、そして彼に言うのである:「主イエスよ、どこへ行っても、またどんな時にも、私と一緒においで下さい。あらゆる人間的な慰めをもたないのを喜んで望むこと、これを私の慰めといたしましょう。たとえあなたの慰めを欠くことがあってもあなたの御意図(みこころ)と正しい試みが、私にとって最大の慰めとなりますように。なぜならば、あなたがしょっちゅうご立腹にはならなれぬでしょうし、またいつまでも脅迫なさりはしないでしょうから」(詩篇103:9)と。

■トマス・ア・ケンピス:「キリストにならいて」、大沢章・呉茂一訳、岩波文庫、pp.131-132。


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