真の恵みを知りたい時に



自然(人の本性)と神の恵みとの相反する動きについて

(キリスト)わが子よ、良く心して自然と神の恵みとの動きに気をつけなさい、なぜかというと、このふたつはごく反対で、しかも微妙な仕方で働く他のだから。それは霊的な、内心から啓発された人間でなければ、ほとんど見分けがつかないほどである。人はみないかにも良い物を求める、そして言うこと、なすことに、何か良いものがあるように自負している、それで良いものらしい外観によって、多くの人が騙されるのだ。自然は狡知であって、たくさんな人たちを引き寄せ、罠にかけ、騙すのだ、そしていつも自分を目的とする。それに反して神の恵みは素直な歩みを続け、あらゆる悪の姿を斥ける。それはいろんな欺瞞をおこなおうとせず、万事を神のためにのみとりおこない、そこでまた究極は憩いやすらうのだ。

自然は大勢の友達や親類を喜びとし、尊貴な地位、高い門地や氏素性を誇りとする。権勢に笑いかけ、富にへつらい、自身と同様な人々に喝采を送る。しかし神の恵みは、敵をも愛し、友達の群れに得意がらず、またいっそう優れた徳が存しなければ、地位とか生まれ素性などを顧みようとしない。またそれは富む者よりも貧しい者に好意を示し、有力者たちよりも善良な人々に同情を注ぎ、偽りの多い人たちよりも真率な人々と喜びをともにする。それはいつも良い人たちを、一段と高い恩寵の賜物を競って求めるようにと励まし(1コリント12:31)、徳によって神の子に習うことを進める。自然は欠乏やわずらいをすぐとこぼしてして不平を並べる。しかし神の恵みは、確固として変わることなく窮乏をも耐え忍ぶのだ。

この潔い恵みというのは超自然的な働きであり、神の特別の賜物といったもの、またとりわけて選ばれた人々の表徴として、永遠の救いの保証である。それは地上のことから、天的なことを愛するように人を高め、肉的な人を霊的な人間してしまう。それゆえ、自然がいっそうよけいに抑えられ打ち克たれれば克たれるほど、いっそう大きな神の恵みが注がれる、といったものである。そして一日一日と新しい恵みの訪れによって、内にある人間が、神の像にかたどって作り変えられるのである。

■トマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」、岩波文庫、pp.206-209抜粋・一部修正


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