神のうちに憩いたい時に



私が常日頃とっている態度とは、単純に神に心を傾け、絶えず神を慕い、神を仰ぎ見ることです。それで私の心は、嬉々として母親の胸にすがる乳飲み子にも勝る幸福と喜びにしばしば溢れんばかりなのです。こういう表現をあえて用いるならば、私が味わい、経験している、ことばに尽くせない幸せについて、この状況を「神のふところ」と描写させてください。

時に、どうしても必要なときとか、弱さのゆえにか、脇道にそれることがありますが、たちどころに甘く魅力的な内なる声に迫られて呼び戻されます。その麗しさは到底言いようもありません。私の定めている祈りの時間も、やはり同じことの連続です。時々、私はちょうど自分が、彫像を作ろうとして仕事に取り掛かっている彫刻師の前に置かれた石のように感じます。私は神のみ前に自分を置いて、私の魂のうちに神の完全なイメージを刻んでください、そして私を神ご自身と完全に似るものとしてくださいと乞い願うのです。

他のときにも、心を集中すると、すぐに私の霊も魂も晴れ晴れとし、心遣いや努力もいらずそのまま続きます。さわやかに、動かされること無く神の内に憩い、神が私のうちにいてくださるのを覚えます。

このような状態を怠惰とか、自己欺瞞とか、自己愛と言う人もいるでしょう。たしかに聖なる怠惰祝された自己愛とでもいいましょうか、そういうものがあることは認めます。魂がその中にあるときには、今この時、神を交わることだけを考え、過去の行いなどに心を煩わすことはありません。そのようなものは、かえって神との交わりを妨げるだけです。しかし私は断じてそれを欺瞞とは呼びません。神を喜ぶ魂は、ただ神をのみ求めるからです。

神は私たちの最も必要としているものをよくご存知です。そして神がなさることはすべてにおいて益となるものです。もしも神がどんなにか私たちを愛しておられるかを知ることができたならば、私たちにとって楽しいことも、苦しいことも、等しく神の御手から受ける備えがいつもできているはずです。神の御手から来るものは最も苦痛なこと、最も困難なことでさえ、私たちにとって甘美で喜ばしいことです。最も烈しい苦しみにとうてい耐え切れないように思えるのは、私たちの考えなのです。神が御手によってその試練を与えておられるのだと信じ、また愛に富む天の父が私たちを低くし、悲しみも苦しみも与えておられるだと分かれば、すべての苦しい思いは取り除かれ、ただ喜びとなるのです。

私たちの務めはただ神を知ることです。神を深く知れば知るほど、ますます神を知りたいという飢え渇きを覚えるものです。そして、愛は知識によって測られるものですから、知識が広くなればなるほど、愛もまた大きくなっていくのです。このようにして神への愛が大きくなれば、苦しみの時にも喜びの時にも等しく神を愛するものとなります。

■ブラザー・ローレンス:『敬虔な生涯―普段の生活の中におられる神―』(CLC出版)、抜粋


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