神の愛を必要とする時に



理解力の働きと、意志の働きを明確に区別しておかなくてはなりません。前者はあまり意味のないものですが、後者はきわめて重要なものです。私たちは意志を働かせて神を愛すること、神にあって喜ぶことを唯一の目的とすべきです。どんなに悔い改めの難行苦行をしたからといって、そのうちに神を愛する心が欠けていたら、一つの罪さえ除くことができません。私たちは思い煩うことなく、イエス・キリストの血にすべての罪の赦しを求めるべきです。そして、心を尽くして主を愛することを求めなければなりません。神は、罪を知らずにいる人よりも、かえって最も罪深い人を選んで、最大の恩寵を与えて下さるようです。それによって神の慈しみ深い愛がもっともよく現されるからです。

私は、死についても、自分の罪についても、天国や地獄についても考えを思い巡らさず、神への愛ゆえに小さな行いをすることのみを考えてきました。大きなことは自分にはできません。神が御心に従って、なせと言われるのでなせることであって、そのこと自体については関心がありません。たとえ生皮をはがれたとしても、自分が経験した霊的な苦しみ、あるいは、幾度となく感じた大きな喜びに比べられるものではありません。それで何事も気にかけず、恐れず、何事も求めず、ただ神の御心をいためないようにということだけを心にかけてきました。

私には何のためらいもありません。もし私が過ちに気づいたら、それを否定せず、こう言います。「これが私なのです。このようにしかできないのです。・・・もし間違うことなくできたら、それは神からの助けのあったゆえと神に感謝します。」

■ブラザー・ローレンス:『敬虔な生涯―普段の生活の中におられる神―』(CLC出版)、抜粋


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