絶望しそうな時に



わがたましいよ。なぜ、お前は絶望しているのか。御前で思い乱れているのか(詩篇42:5,11)。

詩篇の詩人はこう自分に問いかけています。私たちもまた、自分にこのような問いかけをすることがあるかも知れません。私たちが絶望する根拠というものが、果たしてあるでしょうか。

二つだけあります。

もし私たちがまだ救われていないなら、絶望する理由は大いにあります。さらに救われていながら、罪の中で生活しているのなら、やはり絶望するしかないでしょう。しかしこの二つ以外に、人間が絶望する理由はありません。というのも、私たちが今述べた二つの状況に該当しないなら、問題が何であれ、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、神のみ前に持って行けるからです。必要が何であれ、またすべての逆境、困難にあって、神の愛と力に対して信仰を働かせることが可能だからです。信じさえすれば、主はご自分の時に、祈りと信仰に応答して下さるからです。この節の次の言葉はこうです。

神を待ち望め。

このことをお忘れにならないでください。困難がどれだけ大きく見え、解決不可能に見えても、私たちの側でしなくてはならないことは、ただ神に希望をおいて主を待ち望むことです。そしてこの信仰が無駄に終わることはありません。主が定められた時に、助けは必ず来ます。

私がクリスチャンになってから、もう70年と4ヶ月が経とうとしています。しかしその間、何百、いや何千回も、主は私をこのようにお取り扱いくださいました。助けを期待することは不可能だと思われた時にも、助けは確かに来たのです。なぜなら、主には独自の資源があって、その種類も何百、何千と数知れないからです。神の資源は無限ですから、私たち人間の場合のように、あのこと、このこと、あるいは20回までなら、と限定されることは決してないのです。1万回に上る異なった状況で、主は1万回の異なった方法を用いて私たちを助けられます。私の側でなすべきことは、問題を幼子のような単純な心で主に申し上げることです。そして主のみ前に魂を注ぎ出すことです・・・

私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています(41:6)。

私たちも主を待ち望むのに疲れた果てた時、時にかなった励ましの言葉を語ってくださるように求めることができます。主が自らイザヤ書50章4節(注)で約束しておられますから、そうすることは良いことなのです。困難や激しい試練に遭い、あるいは何か大切なものを失って疲れ果てた時、または負っている十字架のゆえに、あるいは病気で非常に弱められた―そのような時、私たちは主イエス・キリストにすがることができます。そして主の貴い約束を持って主に語ることができるのです。

「主イエスよ、疲れ果ててしまいました。どうか、私が必要としている言葉をかけて下さい」。

このように祈る時、主は必ず応えて下さいます。私たちを慰めて下さり、霊的な新しい生命を与え、聖霊によって内なる人を強めて下さるのです。

(注)神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、
   朝ごとに、私を呼び覚まし、私の耳を開かれて、私が弟子のように聞くようにされる。

このように主イエスを試してみたことがない方がいらっしゃるなら、そのような方に特にお勧めしたいことがあります。主を試してみてください。そうするなら、主イエスがどれだけあなたの祈りに応えるのを待ち望んでおられるかを発見されることでしょう。

■出典:「祈りの力」、ジョージ・ミュラー、マルコーシュ・パブリケーション、pp.110-115


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