祈りが届かないと感じる時に



私は聖霊をいただいていない、などとふと思いこまされて、そのために祈りを捨ててしまったりする―そういうことのないように注意しなくてはなりません。すばらしい祈りを邪魔しようとして、悪魔は力の限りを尽くしているのです。ですから、そのような間違った結論、いわれのない落胆に、サタンによって引きずり込まれることのないように、気をつけなくてはなりません。もしそのようなことがあなたの心に指摘されて、わたしはもう祈れない、などと思わされたりすることがあっても、そのとき、決してがっかりしてはなりません。むしろそれを良い機会として、さらに誠実に、さらに熱心に、神に近づくことを求めるようにすればよいのです。

そのような悪魔の誘いに乗って、祈ること、たましいを神に注ぎ出すことをやめてしまってはならないのと同じように、自分自身の心が汚れている、そのために祈れない、などと勝手に決めてしまったりしないように注意すべきです。もしかするとあなたの心の中に、そういう汚れがあることに気がつくかもしれません。祈ろうとする時、それらがあなたの邪魔をするかもしれません。もしそうならば、あなたがなすべきことは、そういう汚れを認めて、それらが取り去れるように祈ることです。汚れた心から出る願いを、何とか聞き届けてもらおうと頑張って祈るのではなく、むしろ自分の罪深さを思い知って、神の足元にひれ伏すのです。落胆と絶望から神に不平をぶつけるのではなく、あなたを義とし、聖としてくださる恵みを神に願い求めるのです。ダビデはこう祈りました、「主よ、御名のために、わたしの咎をおゆるし下さい。大きな咎を」(詩篇25:11)。

試みの中にいる、哀れな、打ちひしがれているたましいに、わたしは励ましの言葉を送りたいと思います。どうぞキリストの力に頼って祈るようにしてください。永遠のいのちをいただく祈りは、すべて御霊によって祈らなければならないのは確かです。御霊だけが神の御旨にかなうとりなしを、わたしたちのためにしてくださるからです。しかし、多くの哀れなたましいに聖霊が働きかけておられるからこそ、その人たちは主のみ前で恵みの必要を感じて、うめいているのかもしれません。ですから、彼らはむしろキリストを通して神に祈ったらいいと思います。不信仰のために自分たちが神の民であること、神に喜ばれる人間であることを信じていないし、今のところ信じることができないでいます。けれども恵みの真理が彼らの上に,今すぐにでも示されるかもしれないのです。

ルカの福音書11章の御言葉は、イエス・キリストを心から求めている哀れなたましいにとって、まことに慰めに満ちた個所です。この喩え話は次のことをはっきり教えています。哀れなたましいは、信仰が弱いために、自分たちが神の友であることをみることができないけれど、しかしそれでも、神の恵みを求め,捜し、扉をノックすることを止めてはならない、と。哀れなたましいよ,あなたは神があなたを顧みてくださらないと叫んでいます。悪い言葉を口から出し、悪い事を行ったから、あなたは神の友ではなく、敵になってしまった、と。そうして、まるでイエスがこんなふうに言っているかのように、あなたは思っています。「わたしを煩わせないで欲しい。あの喩え話の人のようには、わたしはあなたに与えることができないのだ」。いいえ、あなたは扉を叩き、うめき、叫び続けるべきです。神に懇願し続けるなら、神は顧みてくださる、というのがわたしの経験です。神は起き上がって、わたしたちに必要なものを与えてくださる、と聖書は言っています。

■出典:「ジョン・バニアンによる祈りの力」、ジョン・バニアン/棚瀬多喜雄訳、いのちのことば社、pp.138-142(抜粋)


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