聖書とは



私たち人間は生まれたくて生まれたわけでもなく、死にたくて死ぬわけでもなく、とにかく両親(私たちは選択できない存在)から生まれてしまって、自分の意志によらず現在ここにいることは厳然たる事実です。この事実に対する説明としては二つしかあり得ません。
  • 一つは「自然発生的に偶然存在に至った」とする進化論的立場です。言って見れば「確率論的世界観」です。地球ができて何十億年もの時間があれば、誰も未だに見た事はなく状況証拠に過ぎないけれど、アミノ酸などの有機物質が集まって自然発生的に生物ができるとする立場です(注)
  • 二つめは「この世や生物は誰かが造った」とする創造論的立場です。生物の構造はあまりにも合目的的にデザインされていて、こんなものがいくら数十億年の時間があっても偶然に生まれるはずがないと考えます。この造った存在は当然のことながら人間以上の存在であって、これを「神」とします。

    (注)ここでもし数十年とか数百年、あるいは数千年で進化が起きたとするならば、多くの人は進化論を取らないでしょう。すなわち数十億年とするところに進化論のもっともらしさが生まれるのです。聖書では目で見ないで何らかの事実を確認することを「信仰」と言います。ですから猿から人になる瞬間あるいは過程を見たことのないのに進化論を取ることは、それが一見合理的な科学的装いを施されていたにしても、まさに「信仰」なのです。よって進化論を取るか、創造論を取るかは、まったく個人の自由意志による選択の結果に過ぎません。

今のところ神の存在を疑っている方も、クリスチャンになりたくはない方も、とりあえずは仮定の話で良いですから、私たち人間をはじめとした自然界を創造した何らかの存在があるものと考えてください。この仮定の下で次に問題となるのは、この存在は果たして私たちと同様の人格(Personality)をもつ存在なのか、あるいは単なる超自然的力(Power)なのか、ということです。この点私たちクリスチャンは前者であると信仰によって知っているわけです。

ではもしそのような人格を持った人間を超えるレベルの存在があるとして、その存在が人間を造るに至った動機は何なのでしょうか?もし動機があるとしたら、果たしてその存在は人間というきわめて不条理な存在を造りっぱなしにしたのでしょうか?そうであるとしたら、人間を造ったことははなはだ気まぐれな行為であって、この存在に対して私ならば憤慨を禁じ得ません。なぜ自分などを存在に至らしめたのか、私は断固その気まぐれに対して抗議します!

しかしながら幸いなことに、その存在は決して気まぐれなお方ではなく、ある一定の意図の下ですべてを創造し、人間という人格を持った存在とコミュニケーション(交わり)することを願われ、何らかの形で自身の存在証明を人間に提供していると聖書は啓示しております。

その一つが自然界です。自然はすばらしく巧妙に存在している事は否定しようもありませんが、自然を通して神が自分の存在証明をしていると信じているのです(ローマ1:20)。これを神による一般啓示と言います。それに対して特に人間を造られた動機を説明するために神が用意されたのが文字メディアによる聖書であると信じています。この聖書に書かれた内容を神による特別啓示と言います。

この聖書は「すべて神の霊感によるものであって、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益である」のです(2テモテ3:16)。ここの「霊感」とは文字通りには「息吹き」であり、神の息吹きを得た人を通して語り出されたものが御言葉であって、よって聖書の言葉には神の息(霊)が吹き込まれているのです。

聖書は旧約聖書新約聖書の二部からなりますが、旧約においてはユダヤ人の歴史を通して、律法を主体とした神と人間の関わりの様を啓示し、来るべき救い主イエス・キリストの出現の準備をします。新約においては救い主イエス・キリスト御自身を啓示し、恵みによる神と人の関係を啓示しております。そして一言で言って、全聖書はイエスという一人のお方を人類に紹介する書物といえます。

(C)唐沢治

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