信仰とは



まず人と人との関係がどうして成立するか考えましょう。当然のこととして初対面の人とは中々親密な関係を一気に持つことはできませんね。なぜならば,相手の素性も性格も考え方も一切が分からないからです。つまり相手の人格や人間性が不明だからです。言い換えますと相手に自分をさらけ出し、委ねることができるかどうか、そうした場合自分がリスクを負うことになるやも知れないと言った不安があるからです。簡単に言えば対象に対する信頼(=信仰)がないからです。

信仰といいますと何か神秘的な響きがありますが、聖書における信仰とは単純に言って「対象に対する信頼」と言えます。信仰が強いことはその対象に対してまったく自分を委ねられるほどに相手を信頼していることであり、反対に信仰が弱いとはその対象に対して不安や恐れを持っていること、すなわち相手を信頼していないことです。かの有名な映画「スターウォーズ」の中に「フォース」なる超自然的な力が登場しますが、聖書で言う信仰自体はそのような超自然的なものではありません(注:神という自然界を超えた存在を対象にするという意味では超自然とも言えますが・・・)。またニューエイジ系の「強く念じれば観念が物質化される」といったものでもありません。

例えば現在の日本においては銀行や商社などの一流企業が陰で悪いことをして、そのために金融システムに対する人々の信頼感が壊れてしまって、互いに相手を信用できなくなり、その結果お金の貸し借りがうまく行かずに金回りが悪くなって、経済が縮んでしまっている訳ですが、これは金融システムに対する人々の信仰が弱くなったと言えるわけです。互いの信仰が強ければお金の貸し借りも安心してでき、お金の回り具合もスムーズになって、経済が円滑に回るわけです。信仰とはこのようなごく当たり前のことです。

ただしここで注意を要するのは、聖書において信仰が強い・弱いと言う場合、それは特に目に見えない神(God)に対する信頼を意味します。聖書では目に見えない事実を確認することを信仰といいます(へブル11:1)。信頼する対象を神に限ったとき、いわゆるクリスチャンの信仰が意味を持つわけです(注)
(注)ここでは神の存在・非存在の知的議論は置いておいてください。「神が存在しない」という主張は神への信仰がないことであり、「神が存在する」という主張は神への信仰があることだからです。

実は人間の五感では感知できない神を知る方法はただこの信仰によります。すなわち目に見えない神に対する私たちの信頼こそ、聖書で問題となる信仰と言えます。したがって単に私たちが「信じる、信じる」と努力するようなものではなく、相手を知っているかどうか、その知り方の程度・深さによって私たちの信仰はその領域と深さを規定されます

そして神に対する信仰があるとは神のご人格・み業に対する私たちの全面的な信頼に他なりません。そしてそのような信仰を神に対して持つとき、神というご人格を最高に尊重し、認め、崇めることになります。それがクリスチャンによる礼拝です。

これからそのような私たちクリスチャンの信仰について、一つ一つ証していきます。

(C)唐沢治

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