悔い改めとは



イエスは公生涯に入られた時、真っ先に宣言されました、「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。

この「悔い改め」とは何でしょうか。自分の犯した罪を反省し、後悔し、二度としませんと誓うことでしょうか。もちろん私たちはイエス・キリストの十字架による罪の赦しを受けるに当たって、自分のこれまでに犯してきた罪を照らされ、自分がいかに高ぶった存在であり、神をないがしろにし、自分勝手気ままに生きてきた者であるかを、ある時点で痛烈に知りました。そして自らの救い主の必要性を感じたから、イエスに対して罪の赦しを求め、その救いのみ業を涙をもって受け入れることができたのです。このように「悔い改め」の意味は、まず第一に自分の罪や、自分に関する消極的事柄の存在をありのままに認め、それを告白することです。

しかし「悔い改め」はそのレベルにとどまりません。消極的には、それまで自分自身、自分の才能、自分の好み、自分の目的、自分の栄光・功績というように、すべてを自分中心に考えていた価値観の体系を一旦崩し、さらに積極的には、自分の思い、意志、感情を自分から切り離して、改めて神へと向け変え、すべてを神中心の価値観の体系へと組み直すことです。ここでは個人の内面におけるドラスティックな変化が生じます。ベクトルの向きが自分方向であったのが、神方向へと向け直され、自分の何かの追及であった人生の目的が、神の何かを追及することへと変化させられるのです。

ですから「悔い改め」とは、自分は悪い存在です、自分は罪を犯しました、自分は駄目な人間です、自分は役に立ちません、自分は愛に不足し、情けない存在です、と告白し続けることではありません。そのような態度はむしろ「悔い改め」とは逆の態度ですらあります。すなわち、それは自分自身を見て、自分の何かに注目することから生じる心の態度であるからです。確かに私たちは自分自身を見るならば、いかに貧しく、罪と汚れに満ちているかを知るだけでしょう。自分に囚われるならば、何の希望も見出せません。しかし、イエスが言われた「悔い改め」とは、そのような自分から目を離し、福音と神の豊かさへと私たちの全魂と視点を向け変えよ、ということです。自分に絶望し、自分に希望を置けなくなったならば、その惨めな自分を放擲して、神の提供する救いと赦しを通して、キリストにある新しい自分と、キリストにあって得た富に目を留めよ、私たちの思いを地的事柄から分離して、それらの天的事柄に置きなさい、とイエスは励まして下さるのです。

すなわちイエスの言われる「悔い改め」とは、自分から神へと転帰することです。これまでの価値観を一旦すべて破棄し、神の提供される新たな価値観を得ることです。古い価値感によって生きてきたこれまでの生き方を、神の価値観によって改めて生き始めることです。そこにはイエスの提供してくださる神の無尽蔵の富を享受し得る可能性が満ちているのです。イエスは言われました、「自分の魂を救おうとする者はそれを失い、失う者は永遠の命を得る」と。私たちが神から何かをいただけるのは、まず自分にあって所有している自分の何かをまずは捨てることから開始されるのです。そのための私たちの思い、意志、感情における変化そのものが、イエスの言われる「悔い改め」ということに他なりません。信仰を得る前に、あるいは同時に、この私たちの内的な変化が必要なのです。神の国への入り口は「悔い改め」、そしてそのドアをあける鍵は「信仰」なのです。
(C)唐沢治

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