復活とは



イエスは不当にも十字架につけられて、神の裁きを私たちに代わって受けて下さり、6時間後に「すべては完成した。父よ、霊を御手に委ねます」と叫ばれて、死なれました。この死についてはヨハネ福音書を書いた愛弟子ヨハネが、ローマ兵がイエスのわき腹に槍を突き刺すと血と水が流れ出た場面を目撃しており、その確かさについては明言しております(ヨハネ福音書19:35)。その後イエスの亡骸は十字架からおろされて、イエスの隠れた弟子であった裕福なアリマタヤのヨセフがピラトに希って、彼によって埋葬されました。墓の入り口には大きな岩の蓋がされ、それは容易に動かすことは不可能でした。イエスの処刑は金曜日でしたが、3日後の日曜日(クリスチャンは主日と言います)にその墓は空っぽであったことが弟子たちによって発見されました。そして多くの弟子たちの前に物理的に現れ、復活を信じない弟子たちの不信仰を叱咤され、「自分は幽霊などではない。肉も骨もある」として、その物理的実在性を証されました。しかし律法学者らは弟子たちがイエスの死体を盗んだのであるとその事実を歪曲して宣伝しました。これがイエスの復活の事実関係です。

イエスは死に閉じ込められている存在ではありませんでした。聖書においてサタンは「死の力を持つ者」と呼ばれ、その死の力によって人々を恐れと不安の中に幽閉して、彼らを支配しています。サタンの支配の根源は「死の恐れ」にあります。しかしイエスはそのサタンの力を復活によって打ち破られたのです!イエスは復活する者たちの「初穂」と呼ばれておりますが、もはやサタンの死の力を恐れる必要ありません。イエスは死を打ち破られたのです!

またもう一面、イエスの復活は彼が地上でなされた御業が完全であり、御父によって完璧に認知されたことの証でもあります。イエスの人間性においてなされた贖いの御業が完全に御父によって受け入れられて良しとされたことの証明であるのです。まったく傷のない神の子羊であったイエスは、まったく罪のない貴い血潮を流されて、その血によって私たちを御父へと買い戻してくださり、贖いの業をただ一度完全にまっとうされたのでした。その完璧さ、その完全さの証明がその復活なのです!もちろんこれは神の聖霊による超自然的御業です。イエスは御父が必ず復活させてくださると信じて、十字架の死を甘んじて受けられたのです。

私たちの経験上で見ますと、私たち自身から由来する願い、意志、願望、さらにそれらを実現させようとする自分自身による肉的努力などは神のみ前で受け入れられません。たとえその動機がどんなに神のためであるとは言え、自分自身に由来するものは旧創造に属するものであり、それは神によって良しとされないのです。したがってそれらの私たちに由来する要素はすべて一旦十字架にあって死に渡される必要があります。これは自分自身にとっては痛みを生じる経験でありますが、十字架によって完全なるに至ればそこには平安と安息が満ちてきます。その時すべての事柄が自分の手からすり落ちてしまうような気持ちがしますが、実はその自分における死こそ、次の神による復活の御業への第一ステップなのです。神は聖霊によって必ず復活の領域へと私たちを導いてくださいます。その領域においてそれまで自分が失ったものが、神の認知を得た上で、栄光ある形で戻ってくるのです!それは自分自身の意志とか努力によるのではなく、ただ神の超自然的力によって復活された形を帯びています。そしてただ神にのみ栄光が帰されるのです!

このようにクリスチャンのあらゆる経験には、「自分由来の何か→十字架の経験→自分の死→キリストにある復活」というプロセスを経る必要があります(死と復活の原則)。神の前では旧創造に属する要素はすべて一旦は焼かれなくてはならないのです。それは私たちのあらゆる経験において自分の要素が入り込み、自分の功績、自分の栄光を求める私たちの狡猾な意図が抹殺される必要があるからです。完全な人であったイエスですら、十字架による死を経て、その肉体も栄光化され、天に携え上げられ、御父の右に座されたのです。あらゆることはただ神の意思に従い、神の力によって、神の栄光のためになされる必要があります。これが「私たちの復活」です。
(C)唐沢治

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