Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2003.11.09


まことの礼拝

礼拝とは儀式ではありません。イエスはサマリヤの女にまことの礼拝はエルサレムでなく、霊においてなされるべきであると言われました。私たちは神の神殿であり、私たちの霊は至聖所です。神はその至聖所にシェキナの栄光を置いておられます。私たちが体や魂の領域から離れて霊に入り行く時、そこにいます栄光の主とお会いすることができます。また主は真理による礼拝を言われました。真理とは単なる物の道理ではなく、リアリティ、実体、本体、実際です。イエスこそ旧約の種々の捧げ物の実質であり、その本体なのです。すでにご自分を十字架で捧げて下さったことにより、父は完全に満足しておられます。私たちが何かを捧げるのではありません。私たちはほふられたキリストを捧げるのです。キリストだけが父を満足させることができます。新約の祭司である私たちはこのほふられたキリストをお捧げするのです。私たちがまず自分の問題の解決や必要の満たしなどは脇へ置いて、神の必要と渇きを満たすことを最優先することが必要です。神が満足される時、その満足が私たちの心の中にも宿ります。すると結果として私たちの問題や必要は解決するのです。セレブレーションを真に聖別された空間・時間とするために、私たちは霊に戻り、霊を用い、霊を解放しつつ、実体なるキリストとひとつになることにより、キリストの思い・感情・意志が私たちのうちに実体化され、キリストの祈りが捧げられるのです。これこそまことの礼拝です。

1. まず神の満足のため

@ 父なる神は御子を満足する(マタイ3:17)→神の心にかなう存在はイエスのみ

A イエスはレビ記1-5章の捧げ物の実体・本体・実際・リアリティ(コロサイ2:17、ヘブル10:1)

B 神が満足する捧げ物−アベルの捧げ物−をする(ヘブル11:4)

C 神はイエスがご自分を捧げた時に完全に満足し、私たちと和解された(コロサイ1:20,22)→神の怒りが私たちに下ることはない!


2. 霊と真理(実際・実体・実質)による礼拝の回復

@ 礼拝の場:エルサレムの山ではない(ヨハネ4:21)、私たちは神の神殿(1コリント3:16)、私たちの霊は至聖所

A 礼拝の根拠:捧げ物、和解のいけにえとされたキリスト(ヘブル9:26、10:12)

B 賛美の意味:私たちの何かによらない、神がそのとおりのお方であるから賛美のいけにえを捧げる(ヘブル13:15)→賛美したくない時、もっとも賛美すべき

C 礼拝のあり方:キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい(コロサイ3:16)。

D 自分の問題の解決や必要の満たしは置いて(=自分の渇き)、神の乾きを満たすこと→十字架の適用(ルカ9:23,24など)

E 私たちの祈りは香であり、神の渇きを満たす(黙示5:6)