Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2004.12.05



いのちの務めE―キリスト教からの解放―

私たちはキリスト教の信者ではなく、キリストの信者です。キリストは「教」を教え、私たちがそれを守ることを要求されるのではありません。キリストは5つの大麦のパンとして復活のいのちとなり、2つの魚としていのちの贖いをなしてくださったのです。そしてこの世に生きる空腹の私たちを満腹させてくださるのです。大麦は初穂の捧げ物であり、過ぎ越しから3日目に捧げられました。植物である大麦はキリストの復活のいのちを表わします。大麦は「地」に育ちます。「地」は神のいのちをはぐくむ場です。「5」は「4(被造物)+1(神)」であり、人に対する神の責任を表わします。神は私たちのいのちをケアする責任を負って下さっています。動物である魚はサタンと罪によって汚された「海」に育ちますが、自分自身は塩辛くはなりません(罪を犯さない)。動物のいのちは贖いのためであり、「2」は証の数字です。キリストはサタンによって腐敗されたこの世(=海)に贖いのいのちとして、2匹の魚として証しされ、生きられました。キリストは大いなる業を行って、人々から預言者だ、王だと高く評価されることを好みませんでした。彼は人々に乗せられることがなかったのです。ただいのちを与える霊として今現在も私たちのいのちとなられるために、小さなパンと魚として私たちと関わって下さるのです。今日偉大な神の器や預言者や使徒が跋扈していますが、彼らは自分たちの大いなる業を誇りますが、いのちを与えることはありません。私たちはむしろ小さくされる道=いのちの道を選ぶべきです。


1.キリストvsキリスト教

@クリスチャンは「教」ではなく、パースン(お方)を信じている
A「教」は要求するだけ、パースンは満たして下さる方
Bクリスチャンはキリストのパースンと結合されている
Cクリスチャンはキリストのいのちを内に得ている
Dキリスト教信者からキリスト信者への脱皮



2.イエスのいのちの務め(ヨハネ6章)

@ヨハネ5章にはベテスダの池(=いのちを与えない宗教)に歩めない人々がいる(=いのちの吹き込みの必要性)
Aヨハネ6章には空腹の人々がいる
B海はサタンによって堕落させられたこの世、山は人の住むべき場所を意味する
Cこの世においては人々は空腹で(5節)、困難に満ちている(18節)
D過ぎ越しの祭り:ほふられたキリスト、食べることのできるキリスト(1コリント5:7)
E5つの大麦のパン=初穂として捧げられる(レビ23章)、復活のキリスト(1コリント15:20)、「5=4(被造物)+1(神)」は責任の数字(キリストはいのちの責任を負ってくださる);植物のいのち=再生と復活のいのち
F2匹の魚=動物のいのち;贖いのため;「2」は証の数字
G再生のいのちとしてキリストは「地」において撒かれ、地で復活された;いのちの贖いのためにはサタンに汚染された「海」で罪なしに生きられた。魚は塩の海に生きているが塩辛くない。
H200デナリ=約1年分の収入:人の考えは大きい、しかしキリストはいのちの供給として、5つのパンと2匹の魚として小さき形でおられることを好み、人々にのせられない(15節)
I12のかご:5000人のユダヤ人だけではなく、異邦人にも十分な供給を与えるキリストの豊かさ;大麦のパン(復活のいのち)の残り(参照:ツロフェニキアの女)



■暗唱聖句:ヨハネ6:11−13
そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった