Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2008.09.14


流れるままに(3)

先週はDr.Lukeはメッセージしないと言いつつ、つい出張ってしまいました。今週は兄弟姉妹に完全に委ねるようにと、内なる主の促しがあります。これから月に1,2回は皆さんにお任せしたいと考えております。誰かのメッセージにぶる下がるいわゆる礼拝のあり方は決して正常ではありません。もちろんそのような機会は必要ですが、すべてがその形になるのはキリストの体の交わりとして問題があります。もちろん誰もがメッセージする賜物があるわけでもありませんが(これには訓練も必要です)、祈ることはできます。賛美することはできます。主を褒めることはできます。ポイントは主にフォーカスすること。この時、内側に何か主からの委託が与えられます。それを短くとも語り出す時、まず自分自身が油塗られ、祝福され、そして大いなる喜びと解放感を味わうことができるでしょう。この時私たちの交わりはきわめて豊かなものとなるでしょう。しかし、預言の霊は預言者に服するのですから、私たちが口を閉ざすならば、預言の霊を制限するのです。このとき交わりは貧しくされます。私たちは今、いわゆる教えを聞くだけの段階から、具体的実行の段階に入っていると思います。主は私たちを成長させたいのです。キリストにある幼子はミルクをもらうだけでした。しかしキリストにある大人は硬い御言葉を自らさばき、料理し、互いに提供し合うのです。これが互いの間での祭司の務めです。自分はできないと言ってはなりません。それは自分を見ている証拠です。元々私たちはキリストから離れては何もできないのです!しかし信じる者にはすべてのことが可能となるのです。内なる霊を解き放ちましょう。(驚く事に本日のニーの黙想のテーマでもあります!) 


<<週報メッセージアウトライン>>
pdfファイル)


=荒野に宴をもうけ=
ウォッチマン・ニー
3月20日

罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。−ローマ8:3-4

 御霊に従って歩むとはどのような意味でしょうか?それはふたつのことを意味します。ひとつは、それは労働ではなく、単純に歩むことです。神を賛美します、今や、神をお喜ばせするために「肉に従」って生きる際の重く不毛な努力から、穏やかで安息に満ちた「内なる全能の御業」に対する依存へと移されたのです。それゆえに、パウロはガラテヤ書で肉の働き と、御霊の実 を対比しているのです。
 第二に、「・・・に従う」ことは、ついていくことです。それは服することです。そもそも主が先導者であるのではないですか?御霊に従うことはあらゆる事柄で御霊に委ねることです。したがって私たちの生の主導権はすべて御霊にあるはずです。御霊に従う人にとっては何も不可能なことはなく、それが彼らの前に広がる行程なのです!