神のエコノミー

−いのちのディスペンセーション−



■本稿はリバイバル新聞2001.12.16号掲載原稿です。

神のエコノミー

「エコノミー」とはギリシャ語のoikonomiaから派生し、原義は神の家庭における配剤・管理、すなわち神の「家政」の意味である(エペソ一・10、三・9、第一テモテ一・4:これらの訳では「計画」と訳されている)。神は単に哀れな罪人を地獄行きから救うだけではなく、もっと深い関係、すなわちいのちの配剤・分与によるいのちの関係を得たいのである。

神の当初の意図はエデンにいのちの木を置かれたことで分かるとおり、非受造の神のいのち(zoe)を人が自らの意志によって取り、霊に内住させることだった。創世記と黙示録は「いのち路線」でつながるが、その間に人は「いのち路線」から「善悪路線」に落ち、いのちから分離された(創世記三・24)。贖いとは「善悪路線」から「いのち路線」への回復である。アブラハムに女の種(単数形)=キリストの約束が与えられ、モーセによって付加的にキリストへの養育係として律法が入り、キリストによって恵みと真理(サブスタンス、リアリティー)がもたらされ(ヨハネ一・17)、いのちの路線へと回復される(同十四・6、ローマ五・15-21)。

キリストは単に私たちの身代わりではなく、私たちにご自分のいのちを分与(ディスペンセーション)するために(ヨハネ十・10)、一粒の麦としてご自分を裂かれた(同十二・24)。アダム系の存在は十字架においてキリストと共に死に、キリストと共なる復活においてキリスト系の存在として解き放たれたいのち(Zoe)を内在化した存在がエクレシアである。すなわち私たちの死と復活を経ることなくしてエクレシアの実質(サブスタンス、リアリティ)はあり得ない。こうして神のいのちは、現在は神の神殿である私たちエクレシアにおいて内在化され、黙示録では神と人が共に住まう新エルサレムとして顕在化される(黙示録二十一・11,22)。かくしてご自身のいのち(Zoe)を増殖すべく神の当初の意図が成就する。新エルサレムとは神のいのちを内に宿し、それを輝き出だす究極的な信者の集合体に他ならない(前田護郎訳脚注)。

こうして神は人の失敗を予知し、それをも用いてご自身の愛と義を証しされた。これがキリストの十字架であり、それはすでに天地創世の時に存在していた(黙示録十三・8)。さらに主は永遠においてもその傷を負っている(黙示録五・6)。かくして神と人の関係は贖いの歴史によってむしろ深く甘いものとなった。

エクレシアの誕生と出現

神は創世記と黙示録の間で、「善悪路線」上の贖いの歴史においてユダヤ人を選び、彼らの子孫としてイエス・キリストを地にもたらした。彼は神が地上に幕屋を張った存在(ヨハネ一・14:原語)、人性の内に生きる神を証しされたユニークな神-人である(ヨハネ十四・9-11)。その霊的いのちを十字架における死と復活を通して解放され、今やいのちを与える霊として(第一コリント十五・45)、私たちにいのちを分与される。復活したイエスはすでに週の初めの日に、弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹きかけた(ヨハネ二十・22)。これはペンテコステの象徴ではない。イエスの行動はすべてリアリティであり、復活のいのちを弟子たちに吹き込んだのである。これはいのちを内在化するための聖霊の「本質的満たし」と言える。この時点でキリストのいのちを吹き込まれた不可視的存在(エクレシア)がいわば嬰児として誕生した。

これに対しペンテコステの聖霊の注ぎは「機能(経綸)的満たし」と言える。イエスの四十日間の訓練の後、嬰児であった不可視的エクレシアが、エルサレムという一地方に可視的に出現したのである。すなわち大宣教の委託を受け、地上で頭の意志を遂行すべく、父の約束に基づいて、力として聖霊を受けたのである(使徒一・4)。使徒行伝においては「聖霊の満たし」には二種の単語が使われ、人格的資質や内的状態に関わる本質的・内的満たしにはpleroo(六・3,5、七・55、十一・24、十三・52など)を、働きや証しなどのための機能的・外的満たしにはpletho(二・4、四・8、九・17など)を用いている。もちろん現代もこれら両面の満たしによるエクレシアの産出は継続している。これらのエクレシアの二面を十分に認識しないと、単なる人間的枠組み・働きとしての「エクレシア」に堕することになる。


信仰の本質

キリストは旧約の実体化であり、新約の本質かつ内実である(コロサイ二・17)。つまりキリストこそあらゆる神の意志の成就であり(第二コリント一・20)、キリストが御霊によって私たち(エクレシア)のうちに内住されることにより、いのちのディスペンセーション、すなわち神のエコノミーが完成される。それはすべて信仰の原理による。御霊は私たちの霊において信仰を息吹き(ヨハネ十六・8,9)、キリストのパースンと言葉を証し(同十四・26、十六・13-15)、信仰は霊的リアリティを実体化する(ヘブル十一・1)。そこで私は著書において「信仰の本質はI AMの実体化である」と述べた。現在満ち満ちたI AMはエクレシアにおいて実体化され、ご自身の表現を得ている(エペソ一・23)。こうして旧新約において一貫する神と人の関係の不変の原則、信仰が完成される。

イスラエルとエクレシア(特に異邦人)あるいは律法と恵みの関係も、いのちと善悪の路線から見るべきである。ユダヤ人の選びは「善悪路線」上の贖いの時系列にあって、いのちなるキリストを全人類にもたらすための選び、すなわち「機能(経綸)的選び」と言える。律法も恵みの必要性を明らかにするために機能的・経綸的に与えられた(ガラテヤ三・19)。異邦人もユダヤ人が不信仰に落ちている間に接木され、両者の区別がないキリストのいのちを内在させた一人の新しい人(エクレシア)として神のエコノミーの中心路線上に置かれる(エペソ二・15,16)。こうしてすべての人が憐れみを受ける(ローマ十一・17、32)。これが「本質的選び」、すなわち「いのち路線」への回復であり、恵みである。アブラハムに対する神の原初的約束にも、「あなたとあなたの子孫とに」という経綸的な面と、「あなたによってすべての国民が」という本質的な面がすでに表れている(創世記十ニ・1-3)。

神の秘められた意図は世の初めからいのちのディスペンセーションであり、エクレシアである(エペソ三・9)。それは贖いの過程においてユダヤ人を介してエクレシアとして成就され、ついにはイスラエルもみなこの本質的選びの中へと吸収・融合される。エバがアダムの眠りによって脇腹の骨から造られ、アダムといのちを共有しているのと同様に、キリストの花嫁なるエクレシアも、キリストの眠りによって脇腹の傷の血と水によって誕生し、キリストといのちを共有している。私たちは信仰によってこの神のエコノミーにあずかる特権へと召された存在である。


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