ダイナミック・フリーダム@

―キリストにある自由の獲得―


真理の実践





■御言葉を行う



『ダイレクト・カウンセリング』では魂の領域における葛藤の機序と解放のプロセスを説き、『フルコンタクト・ゴスペル』では霊の機能について御言葉に基づいて分析しました。これらはいわば『理論編』と言えます。今回のシリーズはその真理に基づいて御言葉を具体的に"実行する"ことを意図します。すなわち自由の獲得の『実践編』と言えます。

キリストの十字架による救いはすでに完成していますが、私たちがそれを信じて行わないならば、"絵に描いた餅"に過ぎません。何度も述べましたように、客観的真理を自分の主観的経験に卸すことが必要です。これは信仰によります。信仰は御言葉を聞くことによりますが(ローマ十・17)、さらに御言葉は行う必要があります(マタイ七・26、ヤコブ一・23)。

真理を知ることは一つのことですが、それを適用することは別です。その"行い"とは、これから神によって罪を赦され、義とされ、受け入れられるためものではなく(ローマ三・27)、すでに罪を赦され、義とされ、受け入れられていることを自分の経験として適用するための行いです(ピリピ二・12,13)。信じた者は、信じたとおりに語り、また行います。特に語ることが大切です。私たちはプラスであれマイナスであれ、自分の口の実を得ます(箴言十二・14、十三・2)。

現在では客観的真理と私たちの主観的経験とは確かにギャップがあります。このギャップを埋めるのは、私たちの側では信仰であり、また神の側では恵みです。信仰と恵みが往復するときに、私たちの事実(経験)は真理に一致するようになります。アグレッシヴに自分を真理に委ね(ヨハネ八・31)、ダイナミックに自由を獲得し(同32節)、そこに留まるのです(ガラテヤ五・1)。私たちは霊的に貪欲であるべきです(マタイ十一・12)。

例えば、私たちはしばしば聖とされ、完全とされるために、祈り、奉仕し、断食し、時に聖書的修行さえも試みます。しかし御言葉は「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。・・・キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされた」(ヘブル十・10、14)とあります。私たちはすでに"聖とされ、完全にされている"のです。聞いたら、単純に信じます。するとその事実が経験となります。信じた者は自分のわざをやめて安息に入るのです(ヘブル四・3)。

本シリーズでは、この実践のための信仰の宣言と祈りによる具体的サンプルを提示します。ぜひご一緒にこれを一つひとつ実行して下さい。御言葉と御霊がシンクロして、あなたの内にキリストにある自由を実現するためにダイナミックな働きを開始されます。


■諸問題のカテゴリー

私たちが地上の幕屋にある間に直面する霊的な諸問題は次のカテゴリーに分類できます。@霊的な敵、A偽り(自己欺瞞・異端)、B反抗とプライド、C赦さないこと、D要塞と呪い―以上の五ポイントです。

アウトラインはすでに『ダイレクト・カウンセリング』にて述べましたが、少し復習します―これらの要素が色々なチャネルを通して、私たちに内住する罪(Sin)と肉(flesh)を刺激して、私たちを様々なトラブルに巻き込み、キリストにある平安と安息から引きずり出そうとするのです。これが敵の策略です(カテゴリー@)。

私たちはこれらの複雑に錯綜した事態を分析する必要はありません。御霊がおられるところには、自由があります(第二コリント三・17)。真理を自らの口によって宣言することから解放の過程が始まります。黙していてはなりません。

罪を犯すことや失敗を恐れないで下さい。恐れるならば、ますます罪を犯し、失敗を繰り返します。FEAR(恐れ)とは「偽りの予期(False Expectation)が実際的に(Actually)実現すること(Realization)」だからです(カテゴリーA)。私もしばしば欺かれて平安と安息から引きずり出される時、罪を犯し失敗します。事実、私を探ればボロはいくらでも出てきます。敵はそこを中傷します。しかし神はすでに治療法を用意されています(第一ヨハネ一・7-9、三・20)。<光→告白→血潮→赦し→平安と安息→いのち>の"いのち増殖サイクル"を思い出してください(『ダイレクト・カウンセリングE』参照)。クリスチャンの歩みは"三歩前進二歩後退"かも知れません。しかし最終バランスは"一歩前進"です!

私たちの魂(精神)は、言葉で構成されていました。その言葉はほとんどが偽りです(カテゴリーA)。私たちの無意識の領域には、人生の各場面で経験する様々の情緒体験によって、その時の言葉と感情が複合して感情観念複合体(コンプレックス)が構成されます。さらに怒り・憎しみ・嫉妬などの霊も複合して、私の称する霊-感情観念複合体、すなわちパウロの語る要塞が築かれます(カテゴリーD)。

ここには精神的エネルギーと霊的エネルギーがカセクト(給付)されています。私たちがその事態に関わった人(時に神)を赦さないとき(カテゴリーC)、このエネルギー複合体は内に蓄積されたままになり、平安と安息を阻害します。

私たちはしばしば真実を直視することを回避するために、このエネルギー複合体を種々の取り繕い(『自己防衛機制』と言います)によって、無意識の中に押し込めます(自己欺瞞:カテゴリーA)。しかしそのエネルギーは抑圧の隙をぬって、意識あるいは身体に噴出します。これが歪曲変形されて精神的なものであれ、身体的なものであれ、様々の症状として現れ、私たちを苦しめます。この心のやりくりはエネルギーを消耗し、心は分裂しますから、平安と安息を失って疲弊します。

神から離れた人間は多かれ少なかれ神経症的です。否、むしろクリスチャンになった後、神経症的傾向に陥る人がきわめて多いのです。しかもいわゆる教職にある人に神経症的傾向がしばしば観察されます。ある精神分析学者は皮肉的に、「"聖人"なる者はみな神経症患者である」と言っておりますが、今日の混乱したキリスト教会を見るときに、確かに一面真実です。なぜなら神経症とは自らのアイデンティティと生存の担保を、自らの努力とやりくり、すなわち肉で確保する試みに他なりません。

その上、時に私たちは欺かれて(カテゴリーA)、肉によって獲得した"実"(自己の業績、達成、地位、職制、評価など)の上にプライドを置いてしまうのです(カテゴリーB)。私たちはしばしばそれらの部分に関する他人からの指摘に、自己主張と自己弁護をもって、時には攻撃によって応答しますが、このような反応が出る部分が実は自分の盲点であり、欺瞞(取り繕い)の存する領域です。自己欺瞞がない領域では、人の言葉は何らヒッカカリとはならないものです。自己欺瞞の存在はこうして感知することができます。

すべての回復の過程は、まず逃げることなく真実を直視することから開始されます。病んでいる人においては、否、自分には問題がないと感じている人においてこそ、ここまで導かれればすでに八十%問題が解決したと言えます。(つづく)


mbgy_a05.gif