ダイナミック・フリーダムB

―キリストにある自由の獲得―


敵に対処する(2)




Aその死において:

イエスは完全なる神、完全なる人でした(ヘブル二・14)。二性を有する一人のパースンでした。彼は私たちの罪の贖いの代価として血を流しました(ヘブル五・3)。それは神の義を満足させ、同時に神の愛を証し(ローマ五・8、第一ヨハネ四・10)、私たちを律法ののろいから贖い出しました(ガラテヤ三・13)。今や私たちは神との和解を得ています(ローマ五・10)。ただ一度の罪の贖いが終わり、もはや何度も動物の血を流す必要はありません(ヘブル九・12、26-28、十・10,12)。さらにご自身の死によって死の力を持つサタンを滅ぼしました(ヘブル二・14)。

またイエスは私たちの身代わりであるだけでなく、私たちはイエスと一体とされることにより、私たちの古い人もイエスと共に十字架につけられました(ローマ六・6)。私たちは罪に対して死に(同7,11節)、また律法に対しても死んでいますから(同七・4)、もはや律法に縛られません(同6節)。死のとげは罪であり、罪の力は律法です(第一コリント十五・56)。しかしその力はもはや無効です。

さらに私たちはこの世に対して、またこの世も私たちに対して十字架につけられ、この世の霊力から解放されています(ガラテヤ六・14、コロサイ二・20)。そして私たちも自分の肉をその情欲と欲望と共に十字架につけてしまいました(同五・24)。


Bその復活において:

三日目にイエスは復活しました。彼の復活はその人間性が完全であり(ヘブル五・8-10)、御父の義が完全に満たされ(ローマ四・25)、最後の敵である死が彼を閉じ込めておけないことを証しました(ローマ六・9、第一コリント十五・21、第二テモテ一・20)。死はその力を剥奪され(第一コリント十五・55)、同時に死の力をもつ悪魔も力を失ったのです(ヘブル二・14)。

復活によってイエスは聖なる霊によって力ある神の子と証しされました(ローマ一・4
)。彼は元々神の独り子でしたが、受肉の結果、単なる神性のみではなく、人性をもって復活されたのです。彼は最後のアダムとして、旧い創造の終結であり、第二の人として新しい創造の初穂です(第一コリント十五・20,23,45)。それは私たちをも神の子とし、ご自身を長子として、ご自身に連なるものとするためでした(ローマ八・29,30)。彼は私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされません(ヘブル二・11)。


私たちは彼の復活によって希望を得、天の宝を受け継ぎ(第一ペテロ一・3,4)、バプテスマを通して救いを受けました(同三・21)。私たちはキリストの死と復活に結ばれて、日々私の死と復活の経験を追求します(ピリピ三・10,11)。最後のアダムは今や命を与える霊として(第一コリント十五・45)、私たちの内に御臨在され、私たちはあふれるばかりの復活のいのちにあって、キリストと共に支配するのです(ローマ五・17,21、第一コリント十五・22)。

鍵は私たちがキリストと共なる死と復活に結合されることです(ローマ六・5,8,第二コリント四・10,11)。敵であるサタンも悪霊も復活の領域には決して触れることができません。


Cその昇天において:

イエスは霊の体をもって復活され、人間性にあって昇天されました(ルカ二十四・39、51)。ご自分の肉体を裂くことによって、天の真の至聖所に至る道を開き、そこで私たちの大祭司としてのイエスが私たちのためにとりなし、まったき救いを提供して下さるのです(同七・24,25、八・1,2)。また私たちもイエスの血によって大胆に至聖所に入れるのです(ヘブル四・14-16、十・20)。

もはやサタンの中傷や告発に耳を傾ける必要はありません。むしろ告発するサタンが裁かれているのです(ゼカリヤ三・2)。この信仰の創始者また完成者であるイエスだけを見つめていましょう(ヘブル十二・2)。


■二、真理の適用



私たちがイエスの獲得した勝利を適用する根拠はマタイ十八・18です。時制を考慮して訳すと次のとおりです:「誠にわれ汝等に云わん、何にても汝等の地上にて繋ぐものは、天に於いて繋がれてあるべく(完了)、また何にても汝等の地にて釈くものは、天において釈かれてあるべし(完了)。」(永井訳)。

これは私たちの自分勝手な主張ではなく、すでに成就している天の宣言を、地で宣言することです。敵はすでに敗北しています。私たちはすでに自由です。リンカーンが奴隷解放宣言をした時、客観的には奴隷はいなくなったはずです。しかし実際には"奴隷"が多くいたのです。一つは知識のないため、一つは信じないためです。彼らには奴隷根性が染み付いており、またかつての主人は彼らを奴隷のままに留めたいのです。嘘と脅しすかしをもって迫るでしょう。私たちのかつての主人(=サタン)も同じです。私たちはキリストによる『霊的奴隷解放宣言』を自ら宣言すべきです。

ポイントはすでに『ダイレクト・カウンセリングH』で述べています。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、霊的な相手です(エペソ六・11,12)。特に私たちの思いを見張り(第一ペテロ五・8)、偽りに欺かれることなく(エペソ五・6)、むしろそれを暴いて明るみ出し(エペソ五・11,12)、真理の光をもたらす必要があります(同13,14節)。偽りは光の下に置かれるとき力を失います(ヨハネ一・5)。すべての思いをキリストの虜とするべきです(第二コリント十・5)。敵の圧迫を受ける領域には必ず偽りがあります。それを暴き、御言葉の真理で置き換える必要があります。その時解放がもたらされます。

@ 真理によって(エペソ六・14)

すでに成し遂げられているキリストの勝利の客観的知識を知り、そこに固く留まりましょう。そこから引きずり出されてはなりません。

A 義によって(エペソ六・14)

私たちはすでにキリストが私たちの義となり、神の義によって救われています。義の胸当てをつけ、良心を刺されることのないように守って下さい。

B 平安の福音によって(エペソ六・15)

私たちが立つところは平安と安息です。足もとが不安定であれば、戦いは不利になります。

C 信仰によって(エペソ六・16)

敵の投げる火の矢を防御するのは信仰の大盾です。敵はあらゆる中傷と告発に対して信仰によって敵に立ち向かうのです(第一ペテロ四・9)。すると敵は逃げ去ります(ヤコブ四・7)。

D 救いによって(エペソ六・17)

私たちは救いの望みの兜をかぶり、思いを敵の絶望感や罪定めから守っていただくべきです。私たちは何があろうと、どんな失敗をしようと、すでに完全に救われています。

E 御霊と御言葉によって(エペソ六・17)

あらゆる真理を私たちの経験として下さるのは御霊です。御霊はキリストの言葉とわざとパースンを証して下さいます。敵に対して剣である御言葉を大胆に語るのです。

F 祈りによって(エペソ六・18)

あらゆることを主に頼り、主から独立することなく、神の方法で行ないます。その宣言が祈りです。祈りは神の備えを私のものとする鍵です。


■三、信仰の宣言と祈り

天の父よ、あなたの御子イエス・キリストの十字架において、サタンはすでに頭を砕かれ、すでに敗北していることを宣言します。キリストがすでに勝利を取られ、私たちはその死と復活に結ばれて、今やキリストのうちに置かれていることを感謝します。キリストの勝利が私たちの勝利であることを宣言します。イエスが来られたのは、悪魔のわざを滅ぼすためであり、すでに死の力をもつ悪魔は、イエスの死によって無力とされていることを宣言します。このことを私たちの内にいます御霊が真理であると証し、私たちの経験として下さることを感謝します。

サタンよ、イエスの十字架に流れる血潮を見よ。サタンよ、神の子に対して悪しき者は手を触れることができないことを告げる。今や、キリストの十字架において、彼の死と共にサタンの誘惑に従っていた古い自分は終わり、キリストの復活とともに、神のために生きる新しい私が生きていることを宣言する。復活した者にお前は手を触れることができないことを宣言する。私にはすでに神の所有として聖霊による神の証印が押されており、私はお前の支配のもとからキリストの支配のもとに移されていることを宣言する。

主イエスよ、あなたの十字架の勝利と、あなたの血潮をあがめ、あなたに感謝と賛美を捧げます。主イエスの御名によって、アーメン。



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