ダイナミック・フリーダムC

―キリストにある自由の獲得―


偽りを対処する(1)




■一、心の性質



(1)よろずのものより偽る

聖書は人の心を徹底的に暴いています。いわく、「心はよろずのものより偽るものであり、はなはだしく悪に染まっている」(口語訳:エレミヤ十七・9)。私たちは信仰をもった時に、確かに新しい霊と新しい心を得ました。(エゼキエル三十六・26)。罪によって死んでいた霊は御霊によって再生され、神との関係に回復されました。この霊との関係において、私たちの魂の内には神ご自身とその御旨を求める新しいダイナミクスが展開するようになりました(→「フルコンタクト・ゴスペルH」)。私たちの魂が自分で独立して機能することなく、御霊に導かれた霊に服するとき、魂にはキリストの思い・意志・感情が再現され、それが私たちの心に反映されます。これが新しい心です。

しかしながら、私たちの魂は依然として造り変えの途上にありますから、霊から独立して機能するとき、御霊が消されてしまいます(第一テサロニケ五・19)。この時私たちの古い自己の生き方のパタン(肉)がムクムクと頭をもたげてきて、私たちの内側には自己主張と自己弁護に満ちます。これが自己欺瞞の状態です。内側は暗くなり、神に対しても冷たくなり、虚しさが支配するようになります。すると思いは肉あるいは敵の想いや空想に満たされ、感情も不安定になり、意志は頑なにされてしまいます。これはサウルの物語を見るときに証明されます(サムエル記上)。

私たちも霊が再生された後も、自分の心の状態を十分に見張る必要があるのです。心は自らの欲に惹かれて、容易に欺かれます(ヤコブ一・14,15)。心を頑なにすることなく、絶えず御霊の働きに開いている必要があります(エペソ四・18、ヘブル三・8,13,15)。そこで私たちは主が命じられるとおり、自分の十字架を負って、自分の魂を否む必要があるのです。真の魂の救いはまず失うことから始まります。


(2)盲点の存在

眼球の網膜には盲点があります。網膜の神経繊維が集まって大脳に送られる部分は光を感知できません。そこだけは物が見えないのです。心も同じです。私たちの心には必ず盲点があります(マタイ七・3、ルカ六・41)。すなわち人は騙されている時には、自分が欺かれていることに気がつかないのです。私たちは敵の悪賢い策略によって(エペソ四・14)、また自分自身の情欲によって欺かれます(同22節)。

そこは自己欺瞞が存在する領域です。人を欺くと同時に御霊を欺いており、その領域にはしばしば自己主張と自己弁護が観察されます(使徒五・1-11)。人から何かを指摘されたとき、ムクムクと自己主張や自己弁護が出てくる時は要注意です。それはその指摘が図星をついている証拠です。人は真実である時には他人から何を指摘されても、何らヒッカカリを感じませんが、それを感じてしまうことは、その領域において何か自分で認めたくない部分、直視したくない部分があることを意味します。そこが自分にとっての盲点です。

また私たちは他人や自分の環境を見るときに、しばしば色眼鏡をかけます。赤い眼鏡をかけていれば、白い紙も赤く見え、逆に赤い色で書かれているものは見えません。にもかかわらず私たちは白紙を見て、「これは赤い!」と声高に叫び、赤い色で書かれているものについて「そんなものは存在しない!」と主張するのです。同様に、自分がある要素を内にもっていますと、それと同じ要素をもっている他人を客観的に判断することができなくなります。その人に助言したり、援助することができなくなります。さらにはしばしばその人との情緒的モツレに落ち込んで、共に消耗してしまうのです。教会でよく観察される人間関係のトラブルはほとんどがこの病理によります。

私たちはあらゆる真理へと導く御霊によって、自らの霊の内にその領域を照明していただき、自己欺瞞を暴き、その領域を解放する必要があります。私たちは何においても自分の判断が絶対であると思ったら、その時点で欺かれています。自分の心は歪んだ弓であることを十分に知るべきであり(詩篇七十八・57)、ここからまことの真理である御言葉に頼る認知判断行動パタンを形成するべきです。


(3)霊は知っている

魂と霊の分離についてはすでにお話しました(→「フルコンタクト・ゴスペルG」)。この論点について、私がよく経験するのは、知性や感情における判断ではYESであっても、心の深い部分の霊では「どこか変だ、何か間違っている」と感知するのです。内側に何かザラッとする違和感を覚えるのです。するとその時点では明確でなくても、時間の経過と共に問題があぶり出され、「そうだったのか」と合点が行くことがしばしばあります。人の霊は偽ることができません。それは人の心の深みまでも探ることができるのです(第一コリント二・11)。この意味でキリストにある兄弟姉妹を偽るならば、必ずそれは明らかにされます(第一コリント十四・25、参照エペソ四・25)。

イエスもパリサイ人たちの思いをご自分の霊で知って、彼らが語る以前に指摘されました(マルコ二・8など)。すべてを見透かされた彼らは憤り、ついにイエスを十字架につけたのです。人は自分の真実を他人から指摘されることを嫌がります。しかし人からは隠しおおせても、自分の霊(良心)から隠すことはできません(ローマ二・15,16)。また聖霊の光のあるところでは決して隠しとおすことはできませんから、自ら明らかにした方が賢明です(第二コリント四・2)。また何かが暴かれたら潔く認め、謝ってしまうことです。

目で見えるところによらず、感じられるところにもよらず、霊によって物事に触れるとき、霊は偽りの存在を必ず見抜きます。霊こそが人の心の内にある神の灯火です(箴言二十・27、ヨブ三十二・8、エゼキエル三十六・27)。


■二、偽りの種類と対抗策

今日サタンの力はその偽りにあります。サタンは"偽りの父"ですから、彼が偽りを語るとき、その本性から語っているのです(ヨハネ八・44)。私たちが自己欺瞞によって、あるいは他者から騙されるとき、サタンは私たちに対する力を持ち、私たちを圧迫し、またマニュピレートすることができます。しかしすべての偽りは光の下に置かれるとき、サタンの力は破られます(ヨハネ一・5)。

霊の再生されたクリスチャンは悪霊によってとり憑かれること(=意志までも支配されること)はありませんが、悪霊の影響によって、相当に混乱した状態(=思い・感情・体が影響される状態)に落ち込むことはあります。私は、敵の欺きを無防備に受け入れた結果、セキュラーな精神科医から精神分裂病と診断されてしまうような症例をいくつも観察しています。

(1)自己欺瞞

(a)その種類:私たちの魂が霊から独立し、特に私たちの考えが御言葉に優先するとき、私たちは欺かれています。特に現代クリスチャンの特徴は、私の意見、私の方法、私の経験、私の達成、私の満足を追及することに明け暮れています。御言葉よりも何かが優先されるところには必ず自己欺瞞があります。

例えば、
 @自分には罪がないと言うこと(第一ヨハネ一・8)
 A自分をひとかどの者と思うこと(ガラテヤ六・3)
 B神を侮ること(ガラテヤ六・7)
 C神の啓示以上に自分の考えを高くすること(第一コリント三・18)
 D自分の舌を制御しないこと(ヤコブ一・26)
 E誰でも天に行けるとすること(ヨハネ十四・6)
 F人の影響を受けないと考えること(第一コリント十五・33)
 G御言葉を聞くだけで行なわないこと(ヤコブ一・22)
 H不品行の者、偶像礼拝する者などが天国に入れるとすること(第一コリント六・9)


(b)その対抗策:繰り返しますが、自己欺瞞の兆候は自己主張と自己弁護です。この疼きを覚える領域には要注意です。主の言葉、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」(マタイ五・37、参照ヤコブ五・12)を測り縄とすべきです。(つづく)




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