ダイナミック・フリーダム【最終回】

―キリストにある自由の獲得―


不条理からの解放-死と復活





■人間存在の不条理

人の誕生と死、また身体や能力、これらは自己の意志によりません。この誕生と死の二点間を与えられた資源で生き延びる営みが人の生です。よって人間存在は本質的に不条理です。カフカなどの実存主義文学はここを鋭くえぐりますが、解決はありません。

神は十字架という人の目には愚かな解決を用意されました(第一コリント一・18)。神の御子が他者の罪のゆえに死んだこと、これこそが宇宙の究極の不条理です。しかし彼は実存主義者のようにその不条理に沈むことなく、むしろ復活によって勝利しました。私たちもその死と復活に与るのです。


■愛と信仰

今日キリスト教会でも「愛は地球を救う」とか「神はそのままのあなたを受け入れて下さる」などの"ヒューマニズム的福音"が流行し、"自己の死"が忘れられ、互いの自己愛を増長しています。パウロは断言します:「信仰によらないことはすべて罪である」(ローマ十四・23)。十字架の自己の死を信じないことは、ただちに神の言葉を否定すること、すなわち罪です。

一方パウロは「山を動かすほどの信仰があっても愛がなければむなしい」と言います(第一コリント十三・2)。では信仰と愛は対立するのでしょうか?彼は結論します:「大切なのは愛を通して働く信仰だけである」(ガラテヤ五・6)。「信仰を通して働く愛」ではありません。愛は信仰の培地です。よって「もっとも大いなるものは愛である」(第一コリント十三・13)。これが愛と信仰の関係であり、両者は対立概念ではありません。神の愛はもっと深いのです。大切なのは愛の質です。


■真理は対決的

今日、「愛こそすべて」的価値観により、真実を語ることについて、裁いている、愛がない、などの批判がなされます。事を曖昧にする口実に"愛"が用いられます。また真理の追求について「理屈を言っても愛がなければ空しい」式の発言がされます。これは自らの知らない真理を提示されてプライドが傷つくことの裏返しです。

神の愛(アガペ)はイエスの生き様を見れば分かります。病んでいる人、苦しんでいる人には限りない憐れみを示しましたが、宮の両替人の台をひっくり返し、パリサイ人の偽善と対決し、徹底的に暴きました。今日の日本の教会では"愛"を口実にこのような対決が避けられ、その裏に多くの偽善が放置され、多くの肢体が傷ついています。

私の師である英国のColin Urquhart (Kingdom Faith Ministry)は「神の愛はセンチメントでなくストロングであり、真理はコンフロンテーショナル(対決的)である」とよく言います。すなわち真理である神の言葉は鋭いメスのように魂と霊を切り離し、人の内を露にします(ヘブル四・12)。しかし肉が切り取られる時(ローマ二・29)、その痛みにあって神の愛は甘く迫るのです(ローマ五・3-5)。神の言葉は一面甘く(エゼキエル三・3)、一面苦いのです(黙示録十・9)。

終わりの時代には人々は耳ざわりの良い、砂糖まぶしの教えを求めます(第二テモテ四・3,4)。よってハードコアな福音が今こそ必要です(第一テサロニケ二・2-4)。


■甘えの脱却

この"砂糖まぶし"は日本人の精神病理である"甘えの構造"によります。母系社会である日本では、母親の機転により子供はその必要を受動的に充たしてもらう経験が刷り込まれます。長じても他者に対してその母性像を投影し、以心伝心で自分を受容してもらい、必要を充たしてもらえるという無意識的期待(甘え)をいだきます。一度充たされると、さらに期待が増長し、相手に対する要求水準を高くするという一種の依存的束縛が成立します。ところがその期待が裏切られると、甘えがあればあるほど、一転して愛がない、冷たいなどの恨みの情緒に転じます。

人間的な愛(甘さ)は必ず発酵し、酸くなり、時に苦くなります。そこでイエスの人性のタイプである細かく砕かれた上等の小麦粉から作る素祭には蜂蜜も酵母も入れてはなりません(レビ記二・11)。教会の"ひとつ"はこのきめ細かく混ざり物のないキリストの人性が私たちの内に構成されることによります。ところが甘ったるい蜜や外見を膨らます酵母が"愛"の名目によって混ざるのです。この甘さによって人々が真理に立ち返ることなく、束縛されたままでいます。

むしろ素祭には塩がまぶされたように(レビ記二・13)、私たちも塩気を失うことなく(マタイ五・13)、塩気によって互いに和らぐべきです(マルコ九・50)。そして神に甘えればよいのです。


■霊的アイデンティティの確立

キリストにある真の自由を見出し、そこにとどまるためには、他人との霊的情緒的モツレに巻き込まれず、また人の思惑に仕えないことです(ガラテヤ一・10)。人を恐れると罠に落ちますが、主に信頼すれば安らかです(箴言二十九・25)。人は内に蓄積された霊-感情観念複合体をもてあまし、その葛藤を他人にぶつけます。特に情緒的に未熟な人は"愛"の欠如を理由に他人に容赦ない攻撃を加えます。これは裏切られた(と感じる)甘えの心理の裏返しなのですが、本人はその攻撃的衝動を抑え切れないのです。しばしば愛を標榜する人々が最も過酷な加害者となります。

キリスト教会でもこのような露骨な批判とか攻撃、あるいは幼い自己主張がなされます。時に牧師はこのような批判と攻撃の絶好の的です。敵は人々の肉を煽ることによってこのエネルギーを巧妙に利用し、教会を壊そうとしているのです。

まず自分を縛るものは自分であると知り、内なるエネルギー複合体を御霊によって解消していただくのです。そのためには自分が「自己にあっては肉に過ぎない者」、しかし「キリストにあっては新しく造られた者」という、一見相矛盾する霊的アイデンティティを明確に確立する必要があります。神の御前の単独者として、自己(魂)をおろして真に服することです。これは孤独な作業です。しかし日本人は神よりもまず他人に受容されることを求めるのです。

そこで教会はしばしば一定の色彩を帯びた人々の社交サロンと化します。しかもこの脆弱なアイデンティティが脅威に曝されるとき、ある人は他人を攻撃し、またある人は内攻して取り繕い(これが葛藤や症状となります)、その不安緊張感を解消しようとします。


■キリストにある真の自由の獲得

真理は本来対決的であり、必ずYESNOかを迫ります。グレーゾーンはありません。また神の愛はストロングであり、自己の死を要求し、真理を譲りません。スポイルする甘ったるい愛ではありません。すでに十字架の御業が完成された現在、ただ信仰によって受けるだけでよいのですが、人間的な諸々の要因がそれを妨げます。

鍵は<死と復活>にありますが、日本人はこれを避けようとします。霊的にも情緒的にもナイーヴで幼いのです。あたかも髪を引っ張って飛ぼうとする人に対して、愛をもってその努力を認め、互いに受け入れ、励まし合うのです。ナンセンスです。真の愛はそのような努力が無意味であることを指摘し、真理に転機させることです。これが悔い改めです。

人はまず自分を生かそうとします。神は人を生かすためにまず死を要求します。ダイ・ハードな人ほど葛藤が深刻かつ長期化します。霊的法則としての真理は人を解放します(ヨハネ八・32)。またパースンとしての真理(=イエス)との出会いによって、内なる真の自由が実現します(ヨハネ八・36、十四・6)。それは魂を否むこと(ルカ九・24)、即ち「お前はすでに死んでいる!」というある漫画の名セリフに鍵があります(コロサイ三・3)。この死にあって復活のいのちが現われます(ローマ六・5、ピリピ三・10,11)。十字架による死と復活、これだけが人間存在の不条理を解き、真の自由に至る唯一の道です。

神に栄光。God bless you !

【参考文献】Colin Urquhart : The Truth That Sets You Free, Hodder and Stoughton, 1993



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