フルコンタクト・ゴスペル@

霊が活きる道―福音の直接体験―


霊は霊に応答する






"フルコンタクト"とは?

ダイレクト・カウンセリングにおいては、主に魂(soul)のレベルにおける葛藤のメカニズムと、解放への処方を説きました。その発展として、本シリーズ、フルコンタクト・ゴスペルは、主に霊(spirit)のレベルの学びを中心に進めます。神の救いの素晴らしさを享受し、神の御旨を知るための鍵は、すべて私たちの霊にあります。

さて"フルコンタクト"の意味ですが、これは私の好きな格闘技K-1から来ています。要するにファイターがモロにぶつかり合うことです。私たちも神のフルコンタクト・ファイターとして召されています。

思い出して下さい。私たちは救われた当初、聖書の知識もなく、聞いたわずかの御言葉に対して、直接に応答した結果として、霊が再生され救いを受けました。これが救いの信仰(Initial Faith)でした。ところがクリスチャンとして歩むうちに、いろいろな聖書の知識とか解釈などを仕込みます。すると御言葉について語ることはできても、生の御言葉との直接的関わりが希薄になるのです。クリスチャンとしての歩みの信仰(Spontaneous Faith)が磨耗するのです。

人には、外部の対象を内的認識空間に取り込む際に、何か枠組みを設け、その対象との直接の接触を避けて、間接化する傾向があります。この枠組みを心理学では"認知のフレーム"と言います。何か内側の新鮮さを失って、霊的感受性が磨り減る経験は、しばしばこの間接化の精神病理によります。これは本来霊によってフルコンタクトするときに、霊またいのちとなる御言葉を、知性(思い)のフィルターを通して、ワンクッション置いた受け止め方になっているためです。

フルコンタクト・ゴスペルはこのような間接的な受け止め方ではなく、神の息吹きである御言葉を、私たちの霊で直接に受け止め、神がなして下さった客観的な救いの御業を自分の経験に卸していくコツを解き明かしたいと思います。それはキリストが十字架によって成就されたスピリチュアル・リアリティを、私たちの内なるインナー・リアリティにすることです。

本シリーズはいわば、"福音のK-1"を目指すシリーズです。よって若干マニアックになる部分もあると思いますが、拠って立つところはあくまでも書かれた神のロゴスとしての御言葉です。皆さんも引用聖句を一つ一つチェックし祈りつつ(これが大切!)、このシリーズを追って下さい。


人の霊の由来

聖書において霊というとき、人の霊(spirit)と御霊(The Spirit)を区別する必要があります。人は霊・魂・体からなっていることはダイレクト・カウンセリングで述べました(第一テサロニケ五・23)。少し復習をしておきましょう。

神が人を創造されたとき、体を土のチリから造られ、その鼻に息(霊)を吹き込むと、人は生きた魂になった(創世記二・7)とあるとおり、霊は神によって吹き込まれたものです。人は霊があるので、生きるのです。イエスも人としての霊を持っていました(ルカ二十三・46)。そして死とは体から霊が抜け去ることです。私たちの体と吹き込まれた霊の間において、体と霊を媒介する存在として魂が生成しました。魂には思い(知性)、感情(情緒)、意志の機能があります。

魂は本来、霊と体の媒介役として、霊的領域の事柄を、その思い・感情によって理解・把握し、意志決定を行う機能があります。また逆に体の感覚器官を通して得た外部情報を内に取り込み、それを霊的領域との関係において評価するという機能もあります。罪を犯す以前のアダムとエバは、単に物理的次元のみではなく、霊的次元においても生きており、その二つの次元の橋渡しとして魂を機能させていたのです(詳細は後述)。

ところが罪の結果、霊的に死に、霊的領域から切り離されため、霊的な情報を得ることが不可能となりました。それを補償するために、魂を独立肥大化させることにより、思い・意志・感情、および肉体を酷使しながら、心理的・物理的次元のみにおいて、サバイバルを余儀なくされたわけです。よって人は魂と肉体で生きる者となり、このような神から独立した生き方とその条件付けされたパタンを「肉」と呼ぶこともすでに述べました。聖書には「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人の内にとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。・・・』と仰せられた」(創世記六・3)とあります。

人は霊の死によって、この魂の領域において様々な取り繕い(自己防衛機制)を用い、心をやり繰りせざるを得なくなったのです。このやり繰りが破綻した状態が精神病とか神経症なのです。この魂および肉の構造と機能を研究する学問がいわゆる心理学であり、精神病理学です。


神の息吹きである御言葉

神は霊です(ヨハネ四・24)。霊である神はことばによって世界を創造され(創世記一章、ヘブル十一・3)、ことばによって保ち(ヘブル一・3)、ことばによってみわざをなされます(イザヤ四十六・10、五十五・11)。神の言(ロゴス)が肉体を取られた存在がイエスであり、神の満ち満ちたご性質が形を取って宿っておられる方であり(コロサイ二・9)、神の本質の完全なる表現です(ヘブル一・3)。その神の言であり真理である方が語ったことばがレーマです。彼が語ると何かが起こりました。そのことばは霊でありいのちです(ヨハネ六・63)。

かつて神は預言者を通して語られましたが、終わりの時代には御子によって語られます(ヘブル一・1-2)。彼のことばを記したのが聖書です。したがって聖書は神の息吹きそのものであり、神の霊が吹き込まれているのです(第二テモテ三・16)。ちょうど乾電池が電気を蓄えておくのと同じです。聖書も白黒の文字であり、紙とインクに過ぎませんが、その中に神の息吹きが蓄えられているのです。乾電池自体ではなく、蓄えられている電気が大切であるのと同様に、聖書という本自体ではなく、その中に蓄えられている神の息吹き(霊)が大切なのです。

聖書を単に知識の書として読むのではなく、御言葉に息吹き込まれている神の霊に触れることです。「いのちを与えるのは霊である」(ヨハネ六・63)とあり、また「文字は殺し、御霊は生かす」(第二コリント三・6)とあるとおりです。聖書知識を増やすことではなく、神の息吹き、すなわち霊に触れることこそ本質です。


フルコンタクトの鍵―人の霊

魂と同様に、実は霊にもいくつかの機能があることが御言葉から知ることができます(後述)。人の堕落の後、人の霊は神との関係において機能を失い、ちょうど消えた電球の様になりました。それは存在してはいても、機能を停止しています。しかし私たちが信仰で応答したときに、霊は御霊によって超自然的に再生され、死んでいた機能がよみがえります(ヨハネ三・5,6)。

神が成就された客観的な御業は霊的領域のリアリティであり、決して知性・感情・意志、すなわち魂の機能によっては評価し得ません(第一コリント一・21、二・14原語)。それは光に耳を、音に目を用いるのと同様に見当外れです。私たちがそのリアリティを知り、それを経験し、評価するのは、私たちの霊を通してです。霊的事象は霊によって感知されるのです。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(第二コリント四・18)、「私たちは、見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(第二コリント五・7)、さらに、「信仰によって、私たちはこの世界が神の言葉で造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」(ヘブル十一・3)とあります。

この「目に見えないもの」こそスピリチュアル・リアリティであり、それは私たちが感じようと感じまいと存在します。霊から生じる信仰はそれをインナー・リアリティとして実体化します(ヘブル十一・1、Darby訳)


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