フルコンタクト・ゴスペル【最終回】

霊が活きる道―福音の直接体験―


福音の究極


-自分を無駄に注ぐ-







いよいよ最終回です。本稿はある個人を高く挙げるものではありません。それは本人の意志に反します。私たちは自分自身を証しするのでもなく、証し人を誉めるのでもありません。キリストご自身を証しし、誉め称え、宣べ伝えるのです。


福音とは?

福音とは、リバイバルとは、何でしょうか?熱心に伝道し、賜物を追及し、癒しと徴と不思議がなされ、ダイナミックなメッセージとナイス・サウンドのワーシップが響く中で人々が叫び、涙することでしょうか。もちろんそういう場面も展開するでしょう。

20世紀初頭、一人の中国人が誕生しました。彼はその母親によって、誕生以前にすでに主に捧げられていました。彼を通称ウォッチマン・ニーと言います。彼は若い頃から自分を主にお捧げし、『キリスト者の標準』(いのちのことば社)などで知られています。もちろん彼の教えにも問題点があることを、私は身をもって知っております。

彼は言います:「福音の目的は主のために自分をむだに注ぎ出すことである。」と(同書)。ベタニヤのマリヤが高価なナルドの香油を高価な壷を割ってイエスに注いだのを見て、ユダは何と無駄なことをするのか、それを売って貧しい者に施しをせよ、となじりました。イエスはマリヤの行為を評価され、彼女の行為は福音が宣べ伝えられる時は記念とされる、と言われました(マタイ二十六章、マルコ十四章、ヨハネ十二章)。

マリヤは主に対する愛のゆえに、主の麗しさを知り尽くしていたがゆえに、思わず香油を注いだのです。その時、部屋の中に香油のかぐわしいかおりが満ちました。イエスこそ私たちのすべてを注ぎ出すにふさわしいお方であることをマリヤは知っていたのです。私たちも自分の最も大切なものを、あえて自分自身を割って、主に注ぎ出すときに、キリストを知る知識のかおりが満ちます(第二コリント二・14)。このかおりがこの世の人々の内側に渇きと欠乏感を覚えさせ、キリストを求めるようにさせるとニーは語ります。彼は叫びます:「ああ、自らがむだになることの祝福よ!主のためにむだになることは、祝福されたことです。」(上掲書)


キリストのいのち

ニーは中国の福建省において素晴らしい働きを始めました。ある日、諸教会の間で悪意ある噂が立ちました。ニーが女と同棲しているというのです。彼を通して救われ、養われた人々もいきり立って、ニーに詰め寄って問い質しました、「ニー兄弟、女と同棲しているのは本当か!」と。ニーは答えました、「そのとおりである」。一同は激怒し、ただちにニーを集会から除名しました。また他の教団教派からもそのミニストリーを一切拒絶されました(1930年代)。

しかし事の真実を知っている兄弟姉妹たちは、「ニー兄弟、なぜ真実を語らないのか。私たちはあなたと共に集会をしたい。あなたが始めるならば、私たちはあなたを支持する」と求めましたが、ニーは、新しい集会を起こすことはキリストの体である教会に分裂を生むとして沈黙を守りました。こうして何年かの月日が流れました。

ついに真実が明らかになる日が来ました。ニーが同棲していた相手は、実は彼の母親だったのです。そのことを知ったニーを除名した人々は、再度、彼に詰め寄りました、「あなたはなぜあの時、真実を語ってくれなかったのか!」。ニーは答えました、「あなたがたは、『女と同棲しているのか』と聞いただけであり、『だれと同棲しているのか』とは聞かなかった」と。彼らは泣き崩れました・・・。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」(マタイ五・37)。


キリストのかおり

1950年初頭、中国大陸はすでに共産党によって席巻されていました。ニーが香港を訪ねた際、多くの兄弟姉妹は彼にこのまま西側に逃れるように求めました。しかし彼は大陸に残る兄弟姉妹と苦難を共にすることを選び、自ら大陸に戻りました。かくして1952年、ニーは中国共産党によって米国のスパイ容疑で逮捕され、15年の刑を受けました。しかし彼はすでに若い頃から神の定めた道について明確な確信を持っていました:「私の最後は、携え挙げられることか、さもなくば殉教することです。」

1967年、15年の刑期が満ちた時、政府は公に信仰を放棄することを求めましたが、彼は拒否しました。主に対する忠実さの故に、彼はすでに解放の希望を放棄していたのです。さらに過酷な迫害がもたらされました。

1972年5月30日、ついに彼は安息に入りました。彼と苦しみを共にした収容所の友人の話によると、持病であった心臓病が悪化し、トラクターに乗せられて荒れた山道を40キロ離れた病院に連れて行かれる途中、ぼろ雑巾のように主の元に召されたのです。死ぬ前に彼は枕の下に大きな震える文字の書かれた一枚の紙を残しました:

「キリストは神の御子であられる。彼は人々の罪を贖うため死なれた。そして3日後によみがえられた。これは、宇宙における最も大切な事実である。私は、キリストを信じながら、召されて行く−ウォッチマン・ニー」

彼の死後、その友もクリスチャンになりました。(以上はニー婦人の孫娘の証言による)。

彼の死の当日に書かれた彼の義姉宛ての手紙の一部です:「・・・私はこの病にあっても、心には喜びが満ちています。どうか案ずることのないように。・・・短い手紙ですが、私の気持ちの深みからのものです。私はただあなたのことを思っています。シュ・ツー(注:彼の幼名)」

私たちはユダのように思います、神はなぜこのような有能な器をその最も生産的であるべき20年間無為に幽閉したのだろうか、と。しかしウォッチマン・ニーの解き放った福音の種は、中国大陸において共産党による迫害にもかかわらず、いわゆる「家の教会」として、静かに、深く、そして着実に成長しています。彼の注いだ"ナルドの香油"のかおりと共に・・・。ある評価によると億単位の魂が得られていると推定されています。神は彼に多くを委ねたがゆえに、彼をあえて幽閉したのです。"イエスのために無駄になる"、これこそ神に用いられる最高の祝福です。


"ムーヴメント"でなく、いのち

ニーはなぜここまで自分自身を注ぎ出せたのでしょう。それは彼がキリストの麗しさ、甘さ、慕わしさを知っていたからです。また"キリストの十字架"を知り、"自分の十字架を負う"ことを知っていたのです(マタイ十六・24、ルカ九・23)。

人によるいわゆる"ムーヴメント"は容易に流行り、また廃れて行きます。私たちはすでにこのような栄枯盛衰を何度も見てきました。また人の組織した教団や教派が手を結び、"一致"を実現しようとする光景も何度も見ています。それは人の目線によります。しかるに神がなさることは、キリストのいのちの増殖とその成長です。私たちが一つであり得るのは、人間的フレームのレベルでの"一致"ではなく、キリストのいのちのレベルにおける一つです。

いのちは自然と繁殖します。雑草は刈っても刈っても生えてきます。それは人の思い・意志・感情、あるいは人のわざとは関係ありません。ただ神の定めたいのちの法則によって生えてくるのです。いのちの繁殖は、人がなそうとしてもなし得ず、人が妨げようとしても妨げ得ないのです。それは神のみわざです。

神が私たちに求められるのは、私たちがイエスのために自分を注ぎ出すことです。この時、何かが砕かれてナルドの香油が注がれ、その香りが満ちます。この香りが人々の内に渇きと欠乏感を生じさせ、真に人の必要を満たすキリストへと誘導するのです。

実は、最も高価な代価を払われたのは、神ご自身です。イエス・キリストという賜物を、私たちのために裂き、その内のいのちを解き放ち、そのいのちを私たちの内にインプラントして下さったのです。真のクリスチャンの一致もリバイバルも、私たちが自分にあって死に、内なるキリストのいのちを生きる、否、内なるキリストに生きていただくときに実現するのです。「生きているのはもはや私ではなく、キリストです」(ガラテヤ二・20)、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ一・27)。


神の栄光に与る日


人の内に住み人を通して証しされる神、人を伴侶としてご自分の妻として迎えて下さるキリスト、この"受肉の奥義"と"夫と妻の奥義"こそ、神の永遠の御旨です。今はまだ秘められています。しかしついに私たちの内から、変貌の山で白く輝いたイエスのように、その神の栄光が輝き出る日が到来するのです!

「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。・・・『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(第二コリント四・5-7)。

神に栄光。God bless you!(終わり)


mbgy_a05.gif