ハードコア・プロファイルズ

−人間の実存的状況の病理と処方−




第7回

真理のうちに歩むA

−逸脱の徴候−



二、ケース・スタディ

霊的成長の第二層<真理による歩み>とは、一言で言えば、キリストに生きていただくことです。クリスチャンはしばしば自己努力と達成によって、何かを神のためになそうとします。伝道、牧会、会堂建築といった見かけ上の業自体が神のための奉仕であると考え、その達成に邁進します。しかしその霊的内実が問われ、私たちの業はいずれ必ず試されます。「木・草・藁の仕事」は必ず焼かれ、カインの捧げ物と同じ運命をたどるのです(第一コリント三・12)。

なぜなら神が受け入れられるのはキリストがなしたことだけです。キリストこそまことの供え物(ローマ三・25)、キリストこそがまことの神への芳しい香りだからです(エペソ五・2)。私たちの"業績"は肉により汚染され、汗臭さにまみれ、キリストの香りでなく、その人の"体臭"がします。

そのためには私たちは十字架の死にあって、自らの業をやめて安息する必要があります(ヘブル四・10)。この時、代わって霊にいますキリストが私たちの魂と肉体を用いて働いて下さるのです(ピリピ二・13、コロサイ一・29)。しかし真理の歩みから逸脱するならば、しばしば次のような兆候を示すようになります。

(1)徴候一:自己意志の主張

神の意志に優先して自己の意志を主張します。あらゆる領域で「私は、私が、私の」として表現されます。こうしてしばしば強迫傾向を帯びます。これはパウロがローマ七章で経験している葛藤のルーツですが、何かをしようとすればするほど逆になる病理です。日本人は几帳面・律儀・潔癖・完全癖の傾向を持っていますので、クリスチャンになったとたんそれがもろに顕在化します。いわゆる"ねばならない症候群"です。つねに何かへと駆り立てられ、満足し安息することがありません。

信徒の立場ですと、いわゆる"熱心な信徒"として見かけ上は評価されますが、本人は絶えざる緊張と葛藤を経験し、外見を取り繕うことで汲々とします。これが進みますと強迫神経症に落ち込みます。牧会者の立場ですと、実績を上げることがすべてとなり、しばしば自己意志を通すために信徒のマニュピレーション(心理操作)と霊的搾取がなされます。これが酷くなるとカルト化します。これらは"神のための奉仕"という仮面によって装飾された自己意志の主張です。その中心にはつねに自己(self)が座を占めているのです。神の栄光を目指すとしながら、自己の栄光を追求しています。その本質は自分の"実績"を無視されたとき暴露します。

いわゆる葛藤で苦しむクリスチャンもその根底に強烈な自己が息づいていることを認める必要があります。自己が降りていないのです。この場合は真に苦しみが尽きるところまで導かれる必要があります。それは自己が尽きるところです。その時、自己は座を降りて、キリストに譲るのです。ヨブの最後の告白に導かれるならば幸いです(四十二・1-6)。

(2)徴候二:真実の抑圧

自己の何かを主張することの裏には強烈なプライドが疼いています。クリスチャンとしての自分のあり方や実績はもちろんですが、このプライドはしばしば苦しんでいることさえも誇るようになります。「自分はこんなにも苦悩している、自分の苦しみは誰にも分かってもらえない」といった主張はまさにプライドの裏返しです。しかし苦悩の裏には自分の真実からの逃避があります。プライドのゆえに真実を受け入れられないとき、それを意識から追い出そうとします。これを抑圧と言いますが、要するに"臭い物に蓋症候群"です。こうして抑圧されたエネルギーを抑えるために絶えざる緊張感を生みます。安堵できないのです。

私たちが福音を聞いて、イエスを主と告白する時にもこのプライドが疼きました。実はイエスを主と告白しつつもなおこのプライドは疼き続けるのです。これは生来の魂のエネルギーによって煽り続けられます。そのためクリスチャンであっても物の見方にバイアス(偏り)が生じ、事実を事実として受け入れることができず、絶えず心のはからいをすることになります(エレミヤ五・21)。このバイアスのために他人との生の交わりが成立しません。"牧師"とか"信徒"などのペルソナ(役割)を介しての関係しか持ち得ないのです。外的真実が内的世界に投影される際、その像が歪んでしまい、実りある交流が成立しないのです(ルカ六・42)。

こうして内的真実であれ、外的真実であれ、取り繕いによりそのままを認めませんから、悔い改めも生じません。よってその領域においては御霊の働きすら阻害してしまい、十字架の真理の適用がなされません。こうして延々と同じ葛藤や苦悩で逡巡することになるのです。しばしばヘブル人と同じように荒野で文字通り四十年を過ごすクリスチャンも多いのです(ヘブル三・15-19)。

イエスは自分の十字架を負って自分(魂)を否めと言われました(ルカ九・23,24など)。プライドが砕かれ、魂のエネルギーが尽きるとき、霊が解放されます。物事の真実はみな霊にクリアに映るようになります。人の心や事態の真実を一瞬に見抜くのです(マルコ二・8、第一コリント二・11,14)。真理と偽り、善と悪を識別する感覚を得ます(ヘブル五・14、第一ヨハネ二・20,21,27,28)。これは知的理解を超えた判断です。自己の判断に頼らないこと、すべての道で主を認めることの意味が分かるようになります(箴言三・5-7)。

(3)徴候三:世の哲学・価値観による歩み

現在の日本のキリスト教界には人間の思想・哲学・ビジョンが、神のそれらに優先されて満ち満ちています。それらは一見もっともらしく、きらびやかで、人の目に良く、麗しく、好ましく映るのです。しかしたいてい偽りです。"自由・平等・博愛"的ヒューマニズムをはじめとするこれらのものは、すべてこの世の霊に従う幼稚な教えであり、だましごとの哲学に過ぎません(コロサイ二・8、20-23)。クリスチャンであっても御言葉の真理によってガードされていないマインド(思い)は容易に欺かれます。"WWJD"や"インナーチャイルド"などはその典型です。後者は医学的にも聖書的にも根拠のない概念です。

私たちは真に神の言葉の前にへりくだる必要があります。たとえすべての人を偽りとしても神を真実とする必要があります(ローマ三・4)。私たちが神の言葉よりも人の言葉を優先する時に、神を偽り者としていることを知るべきです。これは「ありてある」のパースンを否定するきわめて重大な罪です(ヨハネ八・24欄外注、第一ヨハネ一・10)。誰が神に言い逆らうことができましょう、神の主権に服するのみです(ローマ九・20,21)。

実はこの人間の思想・人生訓・価値観のルーツはやはり肥大化した魂にあります。魂の思いに対して偽りの父が自分の想いや映像を投影し、それを核として思想や哲学が形成されます。それによって見かけ上は非常に立派であり、良き社会人であり、地位名誉も獲得し、人生の成功者であるかも知れませんが、しかしそれは神の基準から見るならば、霊的実質を伴わない空疎なものです。霊的コスプレに過ぎません。この意味で私たちは目に見えるところによって判断したり(第二コリント四・18)、肉によって人を認めるべきではないのです(第二コリント五・16)。同時に、昨今のキリスト教的"ハウ・トゥーもの"、"成功人生物語"、"慰め・励ましもの"が流行している現状に警鐘を鳴らします。

私たちは自らの十字架を負って、自らの魂を否み、代わって霊を主体とする必要があるのです(マタイ十六・24,25、ルカ九・23,24)。それは徹底して御言葉の権威に服することを意味します。「私はこう思う・考える」とか「私はこの御言葉が好き・嫌い」といった極私的スタンスを捨てる必要があります。すべて信仰によらないものはすべて罪であり(ローマ十四・23)、信仰は神の言葉によって、霊から生まれるのです(ローマ十・17)。神の言葉は私たちの思いやはかりごとを暴露し、諸刃の剣よりも鋭く魂と霊を切り分けるのです(ヘブル四・12)。すべてのはかりごとをキリストに服させるべきです(第二コリント十・5)。ヨブのように自らの無知を告白し、自らを退けてチリ灰をかぶる必要があるのです(ヨブ四十二・1-6)。徹底的に神の言葉に服した時、まことの深い安息、何ものによっても動揺させられない平安を得るでしょう。