ヒーリングの落とし穴|キングダム・フェローシップ

 "ヒーリング"・ブームの落とし穴 





1.問題提起

昨今、世の中はじめキリスト教会においてさえ、至るところで"ヒーリング"。"何とかセラピー"、"何とかカウンセリング"、"何とか療法"、"インナー・チャイルド"、"アダルト・チルドレン"、"ヒーリング・オブ・メモリー"・・・などなど。書店ではその手の本が平積みにされ、それらの新造心理学用語(?)が次々に紹介されています。

クリスチャンたちも「私はアダルト・チルドレン、過去のトラウマのために私のうちにはインナー・チャイルドがいて、成長が損なわれていて・・・」などの会話をまことしやかにしています。ここに付け込んでニューエイジがヒューマニズムともつれ合って、ひたひたとキリスト教会を侵食しています。

しかし、この"ヒーリング"なるものは、私ども幾分かでも心理学や精神医学を学んだ者の立場からしますと、ちょっと首を傾げざるを得ないのが本音です。これらの新造概念は、何か問題の本質をとてもうまく説明しているかのようですが、いざ「学問的根拠は」、あるいは「聖書的根拠は」、と問いますと乏しいと言わざるを得ません。確かに"素人受け"しますが、学問的あるいは聖書の真理から見てどうかな、が偽らざる印象です。

事実、時々刻々、その流行は変化し、"何とかセラピー"も次から次へと出ては消えの繰り返しです。笑い話ですが、セラピストが10人おりますと、10のセラピーがあって、同じ問題にあっちのセンセイは右、こっちのセンセイは左とおっしゃる始末です。でも聖書は「あらゆる教えの風に吹きまわされることなく・・・」と警告しています(エペソ4:14)。


2.御言葉 v.s. サイコセラピー

では私たちの信仰と魂の確固たる錨である聖書の言葉は何と言っているのでしょう?人は霊、魂(思い・意志・感情)、そして肉体からなっています。神が人(体)を土のチリから造って、鼻に息(霊)を吹き込みますと、人は生きた魂となったのです(原語:創世記2:7)。その霊によって霊である神との交わりの中で、あらゆる保護とすべての必要の満たしを得て生きていたのです。

ところが(big "BUT")、のために人は霊的に死んで、神との交わりから絶たれました。こうして霊的次元から分離されて、自己の肉体と魂でサバイバルを余儀なくされたのです。神の霊が去ってしまい、結果として自己の何かで生きる様を聖書では"肉(flesh)"と呼んでいます(創世記6:3)。この肉による生の過程で、私たちは否応なく様々な傷を受け、自らも苦しみ、葛藤を抱え込んでいるのです。

さて、いわゆる精神分析や精神病理学は霊的次元を考慮しないままに、自己の体と魂によって生きる人間(=肉)の構成とそのメカニズムを解明することを意図します。それらの学問はあくまでも人の魂(心理学・精神医学)あるいは魂と体の関係(精神身体医学)を論じるだけなのです。

肉の働きはガラテヤ書にリストされていますが、その本質は"取り繕い"です。(ただし、この場合、道徳的価値判断を脇へ置いてください。)自己の体と魂(思い、意思、感情)による生き方をする場合、必ず"取り繕い"をする必要が生じます。これを専門用語で"自己防衛機制"と呼びます。いくつかのメカニズムが知られていますが、これらを駆使して人は自己の内でやり繰りをしており、そのやり繰りが破綻した状態が、いわゆる神経症であり、そう鬱病であり、精神病であるのです。"古い皮袋"を取り繕えなくなった状況です。

すなわち、"インナーチャイルド"だとか"アダルトチルドレン"などのもっともらしい用語自体も不要なのです。それは聖書で定義される肉に過ぎません。しかもこの肉を対処する方法も神がすでに用意して下さっているのです。問題は、その神の方法を私達がどう評価し、信じて、従うか、が問われるだけなのです。この意味で私は人間の諸々のテクニックに対しては、それらが神の方法からクライエントを引き離すリスクがあることによって、問題があると見ております。

この世の精神分析などは、この破綻した自己防衛機制の無意識的メカニズムを解明して、クライアントを援助するわけです。皮肉的に言えば、クライアントの"取り繕い"を共に分かち合って補助することになります。これに対して聖書は明確な解決を提示しております。イエスはサマリアの女に何かのヒーリングをほどこしませんでした。「あなたの夫を連れて来なさい」と女が最も触れて欲しくない部分を指摘したのです。それは"取り繕い"を断ち切って、いのちの水を提供するご自身に誘導するためです。(参考:書評『フロイト先生のウソ』


3.神の処方―死と復活

いわゆるサイコセラピーは魂(精神)のメカニズムを解明し、生かすことを意図します。しかし神の方法は逆に死によって古いいのちと新しいいのちを交換するのです。

今や十字架で救いが完成しています。私たちに必要なのは信仰です。すなわちキリストと共なる死と復活の適用です。イエスは十字架で私たちの罪々を負って下さったのみではなく、その元であるアダムより継承した罪を宿している古い私をも十字架につけたのです(ロマ6:6)。

これは何と言う解放でしょう!さらに"古い自己"の生き方のパタン、すなわち肉も、私たちが情と欲と共に十字架につけてしまったのです(アオリスト、ガラ5:24)。私たちの新しいアイデンティティーは内に生きるキリストです(ガラテヤ2:20)。現在の私たちの責任は御霊から独立する性向をもつ魂(原語)を否むことです(ルカ9:24)。

もはや自殺する必要はありません。すでに度し難い"古い私"は死んでいるのです!精神分析や○○セラピーで扱う対象は、この"古い自己"の生き方の痕跡である肉に過ぎません。しばしばそのようなカウンセリングを受けて症状が軽減するのは、ブロックされていた感情エネルギーが、取り繕いのメカニズムが外れて解消されるからに過ぎません。次の事件に直面するときには、再び同じことが起きるでしょう。こうしてしばしばクライエントは自己の内を探り続けたり、セラピストに依存する不健全なボンデッジに陥ります。しかし、神の方法は御霊によって内に生きるキリストに生きていただきなさい、なのです!


4.鍵は・・・信仰!

いろいろなセミナーなどでこの真理を語りますと、大抵の反応は「そんなに単純に行くものですか?」というものです。見ていないのです。そして最も重大な問題は、率直に申し上げますが、信仰の欠如です。心理学者の理論には評価を示しても、御言葉にはその評価がないのです。

あたかも、私の内には傷ついたインナーチャイルドがあって、私はアダルトチルドレン、過去のトラウマのために、現在こうやって苦しんでいるのに神は何もしてくれない、だから・・・という弁明が聞えます。しかし聖書はその過去は終わり、すべてが新しくなったと言っているのです(Uコリ5:17)。「何も足さない、何も引かない、○○ウイスキー・・・」ではないですが、これは私たちの神の御業に対する姿勢であるべきです。

読者諸氏よ、いにしえの信仰の偉人たちがどうやって信仰による勝利を勝ち取ったかよく見て下さい(ヘブル11章)。彼らは時に苦しめられ、傷つけられ、トラウマに見舞われたのではないでしょうか?その中で御霊による神の取り扱いを受けたのではないでしょうか?真のワンダフル・カウンセラーであるイエス(イザヤ9:6)を常に目の前にして歩んだのではないでしょうか?ヤコブがペニエルで経験したように、しばしば最も暗い時に神の御手が臨み、自分にとってもっとも痛い部分に神は触れるのです。


5.チャレンジ

現在の日本の霊的状況はこのようなハードコアな福音が避けられ、何か砂糖まぶしの甘たっるいものになっています。多くの人が「自分を気持ち良くしてくれる福音」を求めています。終わりの時代には人々は自分に都合の良い、自分が聞きたい話を選ぶようになります(2テモテ4:3,4)。このような霊的状況において、現在語られるべき言葉は、混じりけのない真理の言葉です。御言葉は霊と魂を鋭く切り離すのです(原語、ヘブル4:12)。その時には痛みもあります。が、いのちを産み出します。

信仰をもってロゴスを語りまた聞くときレーマとしていのちをもたらします。<ロゴス+信仰=レーマ=霊=いのち>。これがいのちの霊的方程式です。「人を生かすのは霊であり、肉は何の役にも立たない」とあるとおりです。キリストにあって霊の祝福を得るためには、自分にあって魂を否むという代価を払う必要があります。鍵は<方法(セラピー)>でなく、<方(パースン)>に対する信仰です。


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