人間の聖書的啓示と現代精神科学




はじめに

私はすでに昨今の猟奇的犯罪や社会病理を霊的次元から考察しているが、今回は人間存在の聖書的モデルと現代精神科学の知見との関係を検討したい。その設計図であり取扱説明書である聖書では人間はどのように啓示され、それは現代精神科学の知見とどのような関係があるのだろうか。


Dichotomy or Trichotomy?

人間については聖書学者の間でも、@肉体と霊魂の2部分とする説(Dichotomy:C.Hodgeなど)、A体(body)、魂(soul)、霊(spirit)の3部分とする説(Trichotomy:Watchman Nee、Neil T. Andersonなど)に分かれる。現代医学でも疾病を肉体的レベルのみでなく精神との関わりで捉える新しい領域が生まれた。即ち精神身体医学(Psycho‐Somatic Medicine)である。(Psycho=精神:ギリシャ語のPsucheから派生、Soma=身体)

哲学では古くから「心身問題」として論じられてきたが、現代医学でも精神と肉体の関連性は、例えば精神腫瘍学などもあるように、決して無視し得ない。しかし私は2部分説では、教理的にも経験的にも人間を十分に把握し得ないと考える。創世記2:7の比較的原語に忠実な訳、例えばJ.N.Darby訳では「神が土のチリで人を形づくり(body)、その鼻にいのちの息(spirit:霊)を吹き込まれると、人は生きた魂(soul)となった」とある。物理的な体と吹き込まれた霊の間で何らかの相互作用があって、魂が派生したと読める。

人は罪の結果霊が死んで神との交わりが絶たれ神の保護と備えを喪失して、自分を人生の主として自己の体と魂(知・情・意)によるサバイバルを余儀なくされた。霊的次元は忘れられ"自己啓発"による魂の肥大化が生じた。このような体と魂による生き方のパタンが条件付け(conditioning)された有様をパウロは"肉(flesh)"と呼ぶ。クリスチャンである私たちも、十字架においてアダムにあって継承した"古い私"はイエスと共に死んだが(ロマ6:6)、私たちの肉体の一部である大脳と神経系にはニューロン回路とシナプス神経伝達物質の分泌パタンとして、"古い私"の応答・反応(生き方)のパタンが焼き込まれている。これが"肉"の神経生理学的説明である。

クリスチャンはすでに霊の再生を受けて、"新しい私"を得ており、信仰によってその"新しい私"を生きるべきである、が、しばしば"古い私"の痕跡である"肉"によって妨げられる。特に"肉"を自己と同一視すると、しばしば深刻な葛藤に陥る。"肉"は大脳と神経系に焼き込まれた"古い私"の痕跡に過ぎない。真理は「生きているのはもはや私ではなくキリストである」(ガラ2:20)であって、私たちの新しいアイデンティティーは"内に生きるキリスト"である。そして「私が肉において生きているのは、御子に対する(正確には、御子の)信仰によって生きている」(同)のである。

ここで人間の3部分を認めないと、これらの節はあたかも知恵の輪となり、しばしば不毛な葛藤に陥る。"古い私"はすでに終わって、"新しい私"を得ているはずなのに、なぜ今の私は何度も同じ罪を繰り返し、何度も失敗するのだろうかとか、あるいは過去の罪やトラウマに束縛されて、その傷によって今の自分は十分に命を享受できないのか、と悩むクリスチャンがあまりにも多い。そのため様々なカウンセリングやミニストリ−を遍歴して、あたかも長血を患う女の状況に陥る。私たちは大脳に貯蔵された記憶の連続性の上に現在の自己のアイデンティティーを置いているが、そのレベルでの"私"と、新しく獲得した霊的な私の区別が重要である。


真理は自由を与える

上記の葛藤は人間に対する正確な理解の欠如により、魂や霊の法則に反した対応をする結果である。彼らに対しては、人間存在のあり方、特に「魂の法則」と、"古い人"や"肉"に対する正確な霊的知識を提示すると、多くの場合その葛藤からクリアに解放される。イエスは「真理はあなたがたを自由にする」と言った(ヨハ8:32)。この葛藤はパウロがロマ7章で経験しているものと本質的に同一であるが、要するに魂の法則:「しよう/しまいとするとかえってできなくなる/してしまう」を意志の力で克服しようとする努力から生じる。この葛藤が深刻になると強迫神経症にも陥る。この心理機制を精神病理では「精神交互作用」と呼ぶ。

パウロは自身の葛藤を通して、自分の肢体には内住の罪があり、この罪が諸々の罪を犯す法則の存在を見出す。自分がしたくないことをするのであれば、それをするのは私でなく罪だ、と告白する(ロマ7:20)。しかるに私たちには体の支配をその罪に委ねない責任がある(ロマ6:12)。そしてパウロは「神に感謝する。このように、わたし自身では心では神の法則に仕えているが、肉では罪の法則に仕えている」(ロマ7:25)と告白する。彼は肉において罪に"仕えなくなった"のではなく、罪に"仕えたままで"、神に感謝している。さらに「したがって、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ロマ8:1)と告白するが、この一見ちぐはぐな接続詞による文脈は、人の成り立ちや"古い人"、"新しい人"、"罪"と"肉"の関係を正確に理解することによって納得し得る。


聖書の啓示と現代精神科学の知見


これまで聖書におけるパウロの葛藤の経験の精神病理的側面を論じたが、次に人の精神に関わる聖書の啓示と現代精神科学の知見との関係について見て行くことにする。ともすると一方は宗教であって、他方は科学であるとして、あたかも両極端のような扱いを受ける場面が多いが、実は人間存在に対するモデルを提示する点において、その提示の方法が両者において異なるだけである。前者は直説的な啓示によるのに対して、後者は事実の積み重ねによる帰納的方法によっている。しかし、方法論の相違があるにせよ、人間に関わる啓示を科学的用語で記述することもできるし、科学的理論を啓示に照らして評価することも可能である。

パウロの発見した「魂の法則」、"古い私"の死と"新しい私"の獲得、"肉"と"罪"の関係などは現代精神医学の知見を超えて、人間存在に対する深い洞察を提供する。20世紀初頭、ユダヤ人のフロイドは人間の精神に無意識の領域、自分の自由意志の及ばぬ領域を見出し精神分析学を創始した。聖書的には魂の領域に相当するが、確かに私たちは自分が望まないことを感じたり、考えたり、行為したりしており、フロイドによると一種の運命論的絶望感を覚える。事実フロイド自身晩年はそのようなペシミズムに陥っていた形跡がある。しかし聖書では、フロイドの言う無意識における"感情観念複合体Complex"の存在をすでに啓示している。パウロが言う個人レベルでの"サタンの要塞"(2コリ10:4)である。

私たちは自由意志によらずこの世に生まれ落ちてから、自由意志によらずこの世を去るまで、様々な環境を自己の体と魂でサバイバルしている。その経験が遺伝的要因とあいまって大脳に刷り込まれて(条件付け)、私たちのいわゆるパーソナリティーが構成される。その経験は言葉/観念と感情がもつれた形で、私たちの大脳の(おそらく辺縁系周辺)に蓄積されている。これは普段は意識されないが、私たちの意識に絶えず影響する。これがフロイドの言うコンプレックスであるが、聖書的に見ると実はこの"感情観念複合体"には、さらにある種の霊が複合している。つまり"霊‐感情観念複合体"と称するべきものである。これが特にある領域において強固に形成されるとパウロの言う個人レベルでの"サタンの要塞"となる。

これは神の知恵と言葉に論議をふっかけ、対立し、時に憎悪する(2コリ10:4,5)。私たちの肉からはしばしば恐れ、不安、疑惑、汚れた考え、嫉妬、そねみなどが意志に反して出て来るが(ガラ5:19-21)、このルーツはどこか。私たちの肉のうちには良いものがなく、むしろ悪が住んでいるとパウロは告白しているが(ロマ7:21)、実は精神科学的に言えば、そのルーツは上記の"霊-感情観念複合体"にある。


霊的知識と現代精神科学の整合の必要性


現代の脳科学では、ニューロンの回路とシナプスにおける神経伝達物質の分泌による物理化学現象として精神活動を捉えているが、これはちょうどコンピューターのハードに相当するのみであって、精神現象は霊と魂と言うソフトがハードの上に走ってはじめて成り立つ。すなわち霊と魂は大脳生理学的現象とは別個に存在するのであり、大脳と霊/魂が表裏一体となって精神現象が成立している。この点、有名な解剖学者養老猛氏の「唯脳論」はきわめて物質至上主義的で不完全と言える。

つまり霊的世界が実在する以上、霊的世界と人間の霊(spirit)および魂(soul)、さらに体(body)との相互関係を体系的に理解しないと、昨今起きている様々な猟奇的犯罪や日本社会の病理に明確な説明を与え得ない。現代精神科学の問題はこの霊的領域のリアリティーを無視している点にある。すでにセキュラーな精神病理学者などが昨今の社会現象を説明し得ない現在、さらに今後においては、聖書の啓示する霊的知識と精神科学の知見の間の整合性を取り、霊的次元、心理的次元、肉体的次元において人間をトータルに理解する必要がある。人間存在のあらゆる問題については、神と人とサタンの三者の相互関係を理解するときにはじめて真の洞察を得る。私は『霊精神身体医学(Pneuma-Psycho-Somatic Medicine)』を提唱している。

この延長線上で、私は現在の魂の領域のみを指向するいわゆるカウンセリングに対して若干の懸念を覚えており、霊の領域に直結した"ダイレクト・カウンセリング"のミニストリ−を開始する準備をしている。これは元々私の師である英国のコリン・アークハートが提唱したもので、ニューエイジ系の"ヒーリング・ミニストリー"がキリスト教会にも侵入している今日において、真の「ワンダフル・カウンセラーたるイエスご自身(イザヤ9:6)」にダイレクトにカウンセリングを受けるビジョンに基づくミニストリ−である。すべての問題葛藤の解決は、テクニック(方法)ではなく、一人のパースン(方)との邂逅から開始されるからである。詳細についてはHPあるいはメルマガで追って報告する予定である。(⇒真理はあなたを自由にする)


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