霊的アイデンティティの確立J

―御霊との関係の二面性―



※今回は最近の本HPのトピックから3本の原稿を用意しました。他の2本はいのちの内的発露信仰とJAVAを参照して下さい。


■神の霊の経綸的満たし―油注ぎ

最近、ニッポンキリスト教では「油注ぎ」を使い、私がよく使う「油塗り」は聖書にないと言われて驚いた。原語では"chrisma"、英語では"anointing"―邦訳は確かに「油注ぎ」としている。そこで一考を呈したい。

旧約時代の神の霊と人の関わりは経綸的な意味を帯びており、神の霊は王などの職務の遂行のために彼らの上に(upon)臨み、頭に油を注ぐことにより証しされた。その満たしは力を付与するための外的機能的満たしであり、しばしば神の霊は彼らの不従順により去った。


■旧約と新約の本質的相違

新約ではどうか。ヨハネ七・39の原文は「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ"なかった"」とある(欄外注)。これは「父・子・聖霊の同時同在される本質において唯一の神」という定言からすると不思議な言葉である。A・マーレーはここに深い霊的洞察を与える:

旧約では神の霊は単なる神の霊であったが、新約では受肉により人間イエスの霊(ルカ二十三・46)に住み、人性を経た霊、イエスを証しする霊として注ぎ出されたという。ゆえにイエスの栄光化前には"なかった"。すなわち神は受肉および死と復活を通して、神と人の関係の新しい霊的次元を開いたのである。

新約では御霊は私たちの内に(in)いのちとして住まわれる。キリストは人性をまとったまま昇天された一方、いのちを与える霊(第一コリント十五・45)として御霊によって私たちのうちに臨在される(第二コリント十三・5)。同時に御父もいます(ヨハネ十四・23、第二ヨハネ一・9)。すなわち神が私たちの内に住まわれる(第一ヨハネ三・24)。神は三人のバラバラの神々ではない。


■御霊の本質的満たし―油塗り

第一ヨハネ二・27には「あなたがたの内には"塗り油"がある」(Darby,Strong,永井訳等)とあるが、これは聖霊のバプテスマで受ける「注ぎの油」ではなく、信者のうちにいのちとして内住される御霊を指す(Vincent,NetBible等)。

新約では御霊はイエスの御霊(使徒十六・7)、キリストの御霊(ローマ八・9)、イエス・キリストの御霊(ピリピ一・19)としてご自分からではなく聞くままを語り、イエスのパースンとわざを証しされイエスに栄光を帰する霊として私たちと関わられる(ヨハネ十六・13-16)。キリストと御霊は位格としては区別されるが、パウロは「主は御霊である」(第二コリント三・17)として両者の臨在を経験的に同一視した。

私は御霊のいのちとしての内住を本質的内的な満たしと呼び、これが「油塗り」である。御霊が心に甘く芳しいキリストの油を塗り広げて下さるエクスタシー的経験を言う。新約では御霊はもはや離れ去ることがない(ヨハネ十四・16)。


■両面のバランスを

使徒行伝では「満たし」に対して"pletho"と"pleroo"を使い分けている。文脈から前者は外的な満たしを、後者は内的な満たしを指す。ペンテコステなどの満たしは前者であり、人の内面や品性を示す文脈では後者である。イエスはすでに復活の日の夕に弟子たちに聖霊を吹き込んでおられ、この時アダムが神の息によって生きる魂となったように復活のイエスの息吹きによって不可視的教会が誕生した。これは本質的内的ないのちとしての満たしによる。

私たちは御霊の内的臨在による「油塗り」によって心が潤され満たされてキリストの形に造り変えられつつあり、外的には御霊の「油注ぎ」によって力を得て神の国の拡大のために機能し得る。新約の預言や各種務めにとってこの二面性の理解は本質であり、バランスの取れた実行が必要である。



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