霊的アイデンティティの確立C 



■本稿はリバイバル新聞用の原稿ですが、文字数を勘違いして書いたオリジナルな原稿です。実際に掲載された記事はこの半分の量です。


■クリスチャンとは

クリスチャンとは何者でしょう?私は「自分は○○教団△△教会の教職/会員です」という回答が多いのではと懸念します。実はこの質問への回答は自分のアイデンティティの確立のあり方を明確に表現します。

主イエスは言われます、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。・・・御霊から生まれた者は霊です」(ヨハネ三・5,6)。すなわちクリスチャンとは御霊によって霊を生かされた人々です。また「主と一つ霊」とされた存在です(第一コリント六・17)。霊において御霊の内住を得ること、それは御父と御子の臨在にあずかる存在であることを意味します(ヨハネ十四・20,23)。つまりクリスチャンは神の宮また神殿とされた存在です(第一コリント三・16、六・19、第二コリント六・16)。

旧約時代には御霊はある特定の目的のために、ある特定の人の"上に"臨みました。新約では、神は直接に私たちの霊を住まいとされ、"内に"ご臨在されます。この関係は霊におけるいのちの共有結合と呼べる関係であって、御霊の内住は永遠のものです(エペソ一・13,14)。

旧約的な御霊の満たしを「機能的満たし」、新約の御霊の満たしを「本質的満たし」と称するならば、新約の私たちはもちろん「機能的な満たし」にもあずかることができ、それはキリストの体を建てるための様々な賜物の形で表現されます。この機能的レベルでは器に応じて差がありますが、本質的ないのちのレベルではみな等しく神の神たるすべてを得ています。私たちは、このいのちの関係において、子とする御霊によって「アバ、父よ」と親しく神を呼ぶことができるのです(ローマ八・14-16)。これこそが旧約の信仰の偉人が待ち望んで得られなかった特権です(ヨハネ一・12、ヘブル十一・39,40)。


■教会の奥義

教会とは何でしょうか?教会はいくつあるのでしょうか?ここでもそれぞれの教会の定義に応じた回答を見ます、が、実は教会はひとつしかありません!教会とはEkklesiaであって、「召し出された者たち」の意味です。この世から神の国へと召し出された者たち、しかもその内に神が御臨在くださる存在、これが教会です。キリストの体なる教会は、私の体がひとつであるのと同様に、ひとつしかないのです(第一コリント一・13、十・17)。

新約において、神はユダヤ人も異邦人も等しくその内(霊)に住まいを得、いのちの関係に入れ、ご自分の体なる教会、ひとりの新しい人へと構成して下さいました(エペソ一・9,10,23、二・15,16,21,22)。これこそ私たちの得た永遠の神のご計画(オイコノミア)に従った栄光の嗣業です(エペソ一・4,5,9,18)。神の目から見た人種は「キリストにある種族」と「アダムにある種族」の二種類だけです。


■霊的発生学

私の脳から神経系を通して体の各部に指令が伝えられ、私の意思を体の各部分が実行します。手が私の意思と関わりなく勝手に動くのは病気です。教会も同じです。もし体なる教会がキリストの意思と関係なく動き出したら病気です。すなわち「私は、私の、私が・・・」をおろす(魂を否む)必要があります(ルカ九・23,24)。

元々は一つの受精卵から細胞分裂を繰り返し、各部分がDNAの指令に従って、各器官へと分化するいのちの営みはまことに神秘的かつ驚異です。例えば、手の指が分かれるのは、間の細胞が自ら死ぬ(アポトーシス)ことによります。各細胞がみな自分が生きようとするならば、私たちの体は構成されません。教会も同じです。それぞれ同じいのちを等しく得ていますが、それぞれの機能は異なります(第一コリント十二章)。霊的DNAの指令によりキリストのいのちが分化する結果として、それぞれの機能を帯びるようになるのです。その時には誰かが死ぬ必要があります(霊的アポトーシス)。皆が生きようとして、互いに張り合えば必ず分裂です。

「私たちはキリストの体の肢体である」という表現は単なる修辞学的表現ではありません。それは霊的リアリティです。私たちは生身のキリストの体の一部であるという繊細な感覚に目覚める必要があります。些細な事で分裂を繰り返し、互いに異端(原語の意味は"分派"のこと)の烙印を押し合って、次から次へと教団・教派を生み出してきた歴史には誰もみな飽き飽きしているはずです。

キリスト教会の霊的診断と病理、さらに霊的処方はすでに黙示録2、3章に与えられています。これらの七つの教会は当時の横断的な典型的教会であるばかりでなく、この二千年間の教会の時系列的様相をも啓示しています。それぞれの名前には霊的な意味があり、またその内容もいわゆる教会歴史と照合するならば、驚くべき正確さで教会歴史が描かれていることが分かります。


■キリストの体は分けられない

地上に現れる人間の営みとしての教会(地域教会、地方教会)には様々な教理上、実行上あるいは嗜好上の違いがあります。その結果として教団・教派も存在しています。互いに協議して、擦り合わせて、シグマしてもキリストの体のひとつは実現しません。逆に霊的なひとつのキリストの体の具体的表現が各地の教会であるとする観点が必要です。クリスチャンはキリストと同一視されてさえいます(使徒行伝九・4)。

ジグソー・パズルは一つの絵が書かれていたから、それはまた一つの絵に組み立てることができるのです。各人が各ピースに勝手な絵を書いても決して一枚の絵はできません。同様にすでに霊的リアリティとしての一つの体なる教会が存在しているからこそ、具体的レベルでの一つが実現し得るのです。


■体感覚に目覚める

かつてバブルで浮かれていた時代、女性の間でボディ・コン(Body Conscious)が流行しました。体の線をくっきりと見せるファッションは、男性の目を奪ったものです。誰の造語かは知りませんが、私もちょっと拝借したいと思います。私たちはキリストの体感覚に目覚める、つまりボディ・コンであるべきです。これは私たちが自らの霊的アイデンティティをどう確立し、霊的にいかに熟しているかを如実に示す霊的バロメーターです。

アイデンティティの希薄な幼子は自分の属性を追求し、その動機はすべて「私は、私の、私が」というセルフ・コンシャス(自意識)です(第一コリント三・1-4)。アイデンティティを確立し霊的に熟するにつれ、すべての動機はセルフによらず「キリストは、キリストの、キリストが」というボディ・コンになります(ピリピ一・20,21)。この意味で、しばしば聞かれる「苦節何十年、私はこれだけ犠牲を払って伝道し、私の教会員数は何千何万になり、私がこれらの会堂を献堂したのだ」といった言葉は、はたして何に由来するのでしょうか。


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