霊的アイデンティティの確立E

−甘えの病理と"女の霊"−



精神分析学の土居健郎は日本社会の病理の分析において、甘えがキーワードであることを明らかにした。欧米語には「甘え」なる単語すらなく、あえて訳せば「受動的対象愛」となるがピンとこない。日本人の議論下手、批判に対する脆弱性、傷つき易さ、過敏な情緒的反応はすべて甘えの病理による。


■甘えの本質は自己愛

甘えとは他者に自己愛を満たしてもらう無意識的欲求であり、ナルチシズムの一つの表れである。日本では母親が子供の欲求を機転を利かせて察知し、子供が自己表現しなくても満すために、子供は他者が自分の欲求を以心伝心で満たしてくれるという無意識的期待を抱く。日本人の人間関係は長じてからも相互の甘え欲求を汲み取り、互いに満たし合う形で成立する。

また左翼や右翼もその根底に裏切られた甘え欲求があって、左翼は知性化による、右翼は情念的発散による代償満足の試みであり、根は同一の深層心理による。


■甘えを助長するキリスト教界

甘えはキリスト教界では一般社会よりも容易に"受容"され増長される傾向がある。例えばクリスチャン系掲示板では幼児が母親に向ける甘え欲求を満たす試みを互いに仮想的に再現している様が観察される。また牧師を「先生」と称する深層心理にも、この甘えの病理が働いている。アカデミズムの「先生」と牧師の「先生」ではその色彩がかなり異なる。アカデミズムの「先生」は単なる職務(機能)上のアイデンティティに過ぎないが、牧師の「先生」は本質的アイデンティティに組み込まれている。そこで「先生」と呼ばれない(=甘えが裏切られる)と怒り出す御仁も現れる。これは呼称制度の問題ではなく精神病理の問題である。

つまり甘えは脆弱なアイデンティティのあり方と表裏一体であり、相手に対して自己の甘え欲求への応答を期待し、それがかなうとき自己のアイデンティティは守られる。こうしてキリスト教界においては、牧師は信徒に対して、信徒は牧師に対して、それぞれの内的な甘え欲求の充足を無意識的に期待し、牧会場面においてその役割を演じ合う。


■"女の霊"との融合

さらに霊的要因が絡んで問題が錯綜する。特に終わりの時代の特徴は"女の霊"の支配である。今日どの分野にあっても人気を得る秘訣は女性の評価を得ることである。聖書にはイザベルなる女が出現するが、黙示録のテアテラの教会また大淫婦バビロンの本質的役割を演じる霊である。この霊の特徴は神が定めた男の霊的権威に対する嫉妬であり、憐憫、妬み、恨みの情緒に色づく。この"女の霊"は神の霊的権威の指令系統を混乱させる。ウイルスのように、最初は"愛・赦し・優しさ・包容"などの母性的雰囲気を醸しながら権威の系統に割り込むことに成功すると、本性をむき出して霊的秩序を破壊し自己増殖する。

古くはアマテラスや卑弥呼にもこの霊のバックアップがある。今日も日本人のアニミズム志向の魂に触れる宮崎駿の映画では穏やかに、すでに霊的秩序が犯された領域ではその荒ぶる本性を露呈する。政界や芸能界の"女帝"の振る舞いを見れば明らかである。

マザコン社会日本の場合、母性を求める甘えの精神病理がこの"女の霊"の侵入を容易に許す。これが「砂糖まぶし・真綿くるみの病理(やさしさの精神病理)」として、この世にも教界にもベールのようにかかっている。甘えの本質は自己愛であり、決して満足を知らない。しかし神の愛は自己を焼き尽くす父性的愛であるが、真の満足をもたらすのである。

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