霊的アイデンティティの確立H

−カミングアウトの病理−



"カリスマ条項"

今般、福音派の"カリスマ条項"が削除され、聖霊のバプテスマを受けた方が"カミングアウト"できるようになったとの記事を読んで目が点になった。無知をさらすようであるが、数年前まで日本には福音派と聖霊派の対立があることや、そもそもその定義すら知らなかった。また"第三の波"なるものも知らず、いわんや"カリスマ条項"は今回初めて知った。

ちなみに私自身もある掲示板で異言に触れたところえらくお叱りをいただいたり、全国の牧師先生が注目しているからとの鶴の一声で、あるメルマガにおいて聖霊派系の方の証が没になる現場を目撃した。当時まったく理解に苦しむ事態であったが、今回ナゾが解けた。

「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。・・・あるいはまた人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。」(ガラテヤ一・10)。

賜物の自己目的化

私は救いの初期に聖霊のバプテスマを受けたが、異言はかなり後だからペンテコステ派ではないし、日本の聖霊派で育ったわけでもない。師である英国のコリン・アーカートも元聖公会司祭であり、ペンテコステ運動とは関係がない。と言って福音派でもなさそうだし、"第三の波"の意識もない。しかしこれらの賜物の経験はあまりにもリアルであり、"カミングアウト"など微塵も思ったことがない。

ただし日本の状況で不思議なことは、聖霊のバプテスマ、異言、預言、癒しなどの賜物が自己目的化している点である。賜物を必死で得ることが究極の目的であるかのような印象である。霊的経験は賜物で終わるものではなく、もっと深くて豊かな次元が広がっている。賜物はキリストの体を建て上げるための補助に過ぎない。本質は私たちの霊に御霊によって植えられたキリストのいのちを育て、ついには内側にキリストの形が形成されること、つまり神の子の出現である(ローマ八・19,29、ガラテヤ四・19)。

対他的埋没型アイデンティティからの脱却

日本人のアイデンティティは他者との相互関係おいて、他者の受容と評価を得ることによって確立される(と感じられる)。よってその集団から浮くこと、つまり"異端児"になることを極端に恐れる。真理を語るにも右左を見てとなる。「青信号ひとりで渡ると恐くなる」の病理である。これを"対他的埋没型アイデンティティ"と呼ぶ。

対してクリスチャンのアイデンティティは、第一義的に神の御前での単独者として、神に受け入れられ、神の評価と認知を得ることによる。真理が優先され、他者の顔色伺いからは解放されている。これを"対神的自存型アイデンティティ"と呼ぶ。

甘えの病理とアニミズムで特徴付けられる日本人にとって、後者を確立することはきわめて困難である。しばしば教会も真理を中核としたキリストにある交わりではなく、うるさいことを言わずみんなで仲良く輪になる"交わり"に陥り易い。

"ボディコン"の確立を

真のアイデンティティの確立には以前も述べたボディコンが必要である。キリストの体の肢体である自己認識である。私はそれ以外のフレームに規定されることは好まないし、自由でいることを願う。私たちの魂はしばしば"目に見えるもの"に頼ろうとするが、霊が開けて主の絶えざる臨在を楽しむコツが開かれれば、その渇きは消失する。

魂にいかなる苦難があろうとも、魂から分離された霊は御座の前で憩い、神ご自身を楽しむ。新約では香壇は至聖所に入っている(ヘブル九・4、比較:出エジプト三十・6)。すなわち私たちの祈り(香)は霊(至聖所)から立ち上り、その香りを神は楽しんで下さる。至聖所において神と私たちは互いの存在を楽しみ合うのであり、これが新約の霊的な奉仕の本質である(第二コリント三章)。


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