「渇き」を癒されて



唐 沢  治 (Osamu Karasawa)

 



1.契 機

高校時代の私は希望の高校に進学できなかったことで、劣等感とコンプレックスの塊でした。そして自分の能力や将来に対する漠然とした不安をいだいておりました。自分はいったいどこから来て、どこへ行くのか、自分とはいったい何者なのか。いつもそんなことを頭に思い巡らしていました。自分を持て余していたというか、自己の不確実感に悩まされていました。

そのような時にイギリスのポップス歌手メリー・ホプキンの歌に出会いました。彼女は68年に"Those Were the Days"という、ビートルズのポール・マッカートニーのプロデュースによる曲でデビューし、一躍世界のミリオンセラーになりました。独特の哀愁を帯びた素朴な歌声に惹かれ、彼女のアルバムを集めました。その中には、神やイエスに関する詩が多くありました。そしてそのイエスの名前の出ている曲を聞いていると、なぜか心が休まり、平安を覚えました。彼女自身がウエールズの出身で、少女時代に教会の聖歌隊で歌っていたことを知りました。この頃からイエスの御名とイギリスへの憧れが私の心に残りました。


2.放 浪

田舎から大学に入るために上京し、浪人して東京大学に入りました。しかし高校時代に抱いた疑問と不安は解決せずにおりました。あるきっかけで「禅」に熱中しました。善悪の判断があるから、その知性のゆえに人間のあらゆる苦悩があり、したがって、その善悪の二元論を超える境地を得れば、自分も本当の平安と安息を得られると期待して、ある種の「禅的修行」をした時期もあります。鈴木大拙、西田幾多郎、大森荘源などの著書、道元の「正法眼蔵」、臨済の「臨済録」、盤珪禅師の「盤珪語録」など、手当たり次第に読んで、自分もそのような境地を得たいと思いました。ところが鎌倉のある名僧の息子が警察に逮捕される事件を起こし、その名僧は心労からか、それから半年後くらいに亡くなりました。あの名僧が・・・とショックを受けました。

一方、大学の講義はサボり放題で、とにかく遊びまわっていました。ある夏の日、友達と北海道を車で走りました。そして屈斜路湖で見た星空に感動しました。流れ星がスースーと飛び、空一面星の瞬きで満ちていました。どうしてこんなに美しいのだろうか、と深く印象に残りました。これが偶然にできたのだろうか、それとも神はやはりいるのだろうか・・・。その頃、一時は結婚を考えたこともある女性と交際していました。彼女のことを深く愛しておりましたが、当時の私は、自信もなく、金もなく、将来の展望もなく、ただ自分のことしか考える余裕はありませんでした。そして大学院進学か、結婚かを迫られた時、私は彼女を裏切って前者を選択しました。その時は何か責任から解かれて、むしろ解放感を味わったのですが、結局、自分の利己的身勝手から失ったものを思い知ることになりました。

当時、彼女とはまた電話すれば簡単に会えるようなつもりでいたのですが、しばらくしたある日彼女から、結婚した、という1枚のはがきが来ました。以前、彼女は「わたし、今、近所のおばさんからお見合いを迫られているの、わたしもてるんだから」と言っていたことがありました。その頃のぼくは彼女の真の気持ちが分かっていましたが、それを重荷に感じており、気がつかない振りを装っていました。その「男のズルサ」の報いを受けたのです。私は取り返しのつかないことをしてしまったことに気がつき、文字通り身をよじって苦しみました。もはやすべては壊れ去り、すべては過去のものとして、再び私に帰ることはないのです。後悔と苦しみの期間は1年近くに及びました。私は彼女を裏切ると同時に、自分自身の心をも裏切ったのでした。


3.渇 き

大学院に入った時、1年近くにわたる後悔と葛藤で、私の心はすでにカラカラに干乾びていました。勉強や研究に打ち込める精神状態ではなく、まさに生ける屍でした。心に大きな空洞を抱え、これからどうやって生きるべきか、まったく道を見失っていました。そのような時に一人のクリスチャンに出会いました。彼は私の状態を知って、「あなたは渇いている」と言って、聖書の

祭の終りの大事な日にイエスは立って叫んで言われた『だれでも渇いている者はわたしのもとに来て飲むがよい、その人の腹からは生ける水が川となって流れ出るであろう』(ヨハネ福音書7:37,38

という御言葉を教えてくれました。自分は何のことか分からなかったのですが、「祭の終り」と「飲むがよい」の2つの言葉に惹かれました。まさに自分は「祭の終り」の虚無にあると感じ、イエスの下さるその「飲み物」が欲しい、と切望しました。そして教会の集会に誘われるままに出かけ、何もわからないままにバプテスマを受けました(受洗)。その時は何も感じませんでしたし、自分がクリスチャンになった実感もありませんでした。そこで「主よ、あなたがいるのか、いないのか、明確にしてください」と祈っておりました。バプテスマは受けたけれど、何の救いの確信もなかったのです。

ところがそれから2週間ほどしたある主日(日曜日)、突如聖霊が私に臨みました。「これはいったい何だ!?」と思ったまま、1時間でしょうか、2時間でしょうか、時間を忘れて、聖霊の臨在に圧倒されて横たわったまま身動きできずに、ただただ恍惚としていました。それはあたかもひび割れた皮膚に滑らかなクリームを塗りこむような感覚で、ただただ、甘く、安らかで、形容する言葉がない状態でした。この経験をしてから、自分は確かに救われた、自分はクリスチャンであると確信を持てるようになりました。人に対しても確信を持って証しをすることもできるようになりました。映画「ベン・ハー」の中に、奴隷として砂漠の中を連行される主人公が渇きで死にかけている時、イエスが1杯の水を差し出す場面があります。それはまさに自分の状態でした。イエスの下さる「水」とは聖霊のことだったのです。


4.癒 し

イエス様にいただいた1杯の水は私を生き返らせて下さいました。ああ、それは何と潤いに富んだ水だったことでしょう。永遠の命の水です。私は絶望的な魂の渇きを癒されました。そしてその水は今でも新鮮です

後に浪人時代の日記を見ると、「神よ、正しく導き給え」と書いてあるのを発見しました。その頃は「神」はどなたかわからなかったのですが、浪人の苦しさからこのようなことを書いたのでしょう。神はこの祈りに答えて下さったのです。そして、実はすでにイエスに出会っていたことを思い出しました。それは高校時代のメリー・ホプキンの歌の中ででした。あの頃にイエスの御名を知って、平安を得ていたのでした。それから10年の「放浪」を経て、そのお方にいわば再会できたのです。何か故郷に帰ったような、懐かしい感覚でした。究極的な自分の居場所を得ることができたという心からの安堵感を得ました。救いはただこのイエスの名にあったのです。

自分を見ると、不完全さばかりが目について、自己嫌悪にも陥ります。しかし以前とは違います。希望があるからです。私という土の器の中に聖霊によって臨在して下さるイエス・キリストです。現在の私には魂の帰るべき場所があります。もはや何かを求めて放浪する必要はありません。このお方のうちにこそ、自分の真の安息と平安を得られる居場所を見出しました。カーペンターズの曲"Only Yesterday"のフレーズに"I 've found my home here in your arm."とありますが、まさに主の御腕の中こそ私の居場所です。

イエスとの出会い方は人それぞれです。大事な点は私のように何も知らないでも、聖霊に触れることはできるのです。ただ捜せばよいのです。求めればよいのです。叩けばよいのです。必ず、見出し、与えられ、開かれます。イエスとの出会いは人の一生を一変します。また人の永遠の運命をも変えるのです!


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