自己における死について



とは何でしょうか。それはあらゆる活動の停止無力にして無感覚の極致であり、他者との関係の終焉であり、自己の意志の及ばない状態であります。イエスは罪のない存在であったにも関わらず、私の罪のために、自ら十字架において死なれました。すなわちイエスはあえて自己を救うことをせず、御父の御旨に従って、死のうちに入られたのです。イエスは自分を自分で救うことをなさいませんでした。イエスは人であると同時に、神でもありますから、自らを超自然的奇跡的方法をもって救うことはできたのですが、あえてそれをされませんでした。

イエスは自分の意志を用いることなく、御父のご意志に自らの全存在を委ねられたのです。イエスは死に至るまでも従順であり、完全な者とされたのです(注)彼が生きたのは、自らの意志を通すためではなく、御父の意志を通すためでした。しかしイエスは信じていたのです:必ず御父は御霊によって墓から甦らせて下さることを!すなわち、イエスが完全に御父に従われたのは、御父を完全に信じておられたからです。そのゆえに御父の意志に自らを完全にお委ねしたのです。この根底にあるイエスと御父の関係は愛を通して働く信仰でした。
(注)イエスは人として誕生される以前から、父のふところにおられた神の言(ロゴス)であり、人として誕生した後も、罪のない完全な人でした。したがって、この「完全とされる」とは、もともと完全であったご自身のアイデンティティーにふさわしく生き、御自身の本質を100%発揮され、証しされたことを意味します。何かの修行や修練によって、その本質が変化させられて、徐々に完全なものとされたのではありません。

私たちはこの世に生を受けた時、それは自分自身の意志によるのではありませんでした。しかし成長と共に、自己の意志を持ち始めます。乳幼児はお腹がすけば、泣きわめきますと、必ず親がミルクを提供します。不快であれば、また泣きますと、親が一生懸命あやしてくれます。彼らは天上天下唯我独尊であり、自分がスーパーマンにもなれますし、自分の世界を自分が主人公として生きることができます。自分の幻想と現実が分離していない状態といえます。

すなわち、乳幼児の自我の特徴はある種の全能感にあります。しかし成長と共に、どうも自分の思い通りには物事が運ばないことを知るようになります。自分が世界の中心ではなく、世界の中のちっぽけな一部分に過ぎないことを否応無しに知ることになります。こうして自己の内的幻想と外界の実在の分離を否応無しに経験し、自己と他者の区別を知り、自我を発達させていくのです。よって人間の成長とは、全能感の喪失過程と言えます。

ところが人は自分の意志を完全に放棄することはできません。なぜなら、元々人は悪魔によって「神のようになれる」という誘惑を受け、それに従った結果、堕落に陥ったからです(→「堕落とは」)。自分が「神」になることは、すなわち、自分の意志を思いのままに通し、かつ実現することに他なりません。この誘惑はいぜんとして私たちのうちに強く働きかけます。

そこで人は外界と適当な折り合いをつけながらも、手練手管を用いて、最後には自己の意志を通すことを学びます。このために教育や自己啓発によって魂(特に知性)を発達させるのです。これが社会に適応する形で表現されれば、例えば有能な経営者として手腕を発揮し、これが社会に適応し得ない屈折した形で表現されるとカルトの教祖ともなり得るわけです。表現形態は異なりますが、自己の意志を通し、実現させることにおいて、その本質は同じです(→「オウム問題に思う」参照)。

それに対して、イエスは自己の意志を通し、それを自ら実現させることを一切排除されました:「わたしは父が行うことを見て、その通りをおこなうのである」、「わたしの言葉は父の言葉である」と。彼はあらゆる状況を自らの有利になるようにコントロールされませんでした。イエスの生き方の特徴は、御父に対する愛と信仰によって、完全に御父に頼り、御父の意志を行ったことです。すなわち、「自己における死」とは、主に私たち自身の意志の取り扱い方において、具体的に表現されます。

このことを学ぶ機会を得させるために、神は時に私たちを私たちから見ると過酷とも見える環境・状況に導かれることがあります。その中にあっては、それまで自己の思いのままにコントロールできていた対象が一つ一つ奪い取られ、すべての事柄が自分の手中から落ちて行ってしまうように感じられます。まったく自分の意志を通すことのできない、自らの方法や策略によって事態を収拾できない、そういう状況を私たちに対して、神は必ずある明確な時期において備えられます。イエスですら、十字架の死という自分ではどうしようもない状況に置かれたのです。

このような期間において私たちに残されるのは、ただ私と主との祈りによる交わりだけです。他の対象において自分自身の存在の保証、自分のアイデンティティーを担保を期待することは100%不可能です。私の存在の保証とアイデンティティーを担保して下さるのは、ただ天地を造られた神のみです!「わが救いはどこから来るのか、天地を造られた主から来る」(詩篇)とある通りです。

このような時は自分にとって、ひじょうに心細く感じられ、自分の手足がもがれたかのようなフラストレーションを覚えますが、実はそれは幸いな瞬間なのです。すでに自分の死に入っているからです!イエスの死と一つにされて、ただじっとしていましょう。もがけば夜明けを遅くします。その時は、次なる祝福に備えて、神がすべてをコントロールしてくださっているからです。

多分、私は感覚としてそれを感じることはできません。しかし信仰は知っています。私に残されているのは、ただ御霊による復活なのです!イエスは死に入られ、3日目に復活させられました。そのイエスを甦らせた神の力が私たち信じる者のうちにも働いているのです。その時こそ、私の意志ではなく、神の意志が実現され、神へと感謝と賛美、そして栄光が帰されるのです!神の御業が最も顕著に、かつ明確になされるのは、私たちが自己努力でもがくことなく、自己にあって死ぬ瞬間、すなわち自己の意志が無とされる時です。自己の死は、誰の意志が優先されるか、という点において明確に識別し得ます。それは私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか・・・?

☆注意:ここでいう「自己」とは聖霊から独立して機能する魂(知性・感情・意志)を言います。

(C)唐沢治

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