人の自由意志と神の予定について



クリスチャン信仰において最も重要なポイントは、信仰と従順です。信仰とは神の意志、招き、言葉に対する私たち人の側の積極的な応答です。そして救いを受けることができたのは、私たちの行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるとあります(ローマ書、エペソ書)。神の前で何かの善行とか修行をして、ある一定の神の要求されるレベルに到達したから救いの認証を受けるわけではありません。人は誰も自分の行いによっては義とされ得ません。ただイエスを信じる時、救いは無代価で与えられます。それは誰も神のみ前で誇ることがないためです。

ところがここに人の自由意志と神の予定に関してとても深刻な問題が生じるのです。

聖書によりますとクリスチャンに対しては「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び…ただ、御心のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」(エペソ1:5-6)とあります。するとここで問題となるのは、イエスを救い主として受け入れて救いを受けるかどうかについては神の選びあるいは予定の問題があり、救われた人は選ばれていたからであるするならば、では選ばれていない人はどうなのか、という疑問が生じるのです。

もう少し抽象的に述べますと神の意志人の意志の調和の問題となります。神が選んでいたから救われるのではあれば、それはあたかも人の自由意志とは無関係に、神の側の一方的な救いの意志の押し付けのようにも感じられ、そこには人の側の選択の自由は入る余地がないかのように感じられるわけです。また救いを受けない人は神の選びがなかったのであるから、救いを受けないことについてはその人個人の責任はないかのように感じられます。すなわち神の側に何か恣意的な要素が存在して、あたかも救いは神の気まぐれといった印象すら生じます。

この問題を思弁的あるいは哲学的に論及する能力は私にはありませんので、あくまでも一人のキリスト者として経験的な視点から少し論じたいと思います:

私の場合、救われたとき、自分の人徳の欠如あるいは生き方の間違いから、「青春の蹉跌」を経て、心は傷つき、カラカラに渇きった状態にありました(1)。その時、私の側からしますとたまたま一人のクリスチャンと出会い、彼から福音を聞きました(2)。特に私はヨハネ福音書にある「祭りの終わりの大事な日にイエスは立って叫んで言われた、『誰でも渇いている者はわたしのもとに来て飲むがよい。私を信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」という言葉に惹かれました。「この水とは何のことか分からないが、とにかく飲みたい!」と感じたわけです(3)。そこでイエスを受け入れたいと願いました。そしてその意志表示をしました(4)。すると聖霊のバプテスマを受け、私の心の渇きは癒されたわけです(5)

これが私の場合のプロセスでした。この間、誰かに強制されたこともなく、神が選んでいてくださったという認識もなく、ただそこに居合わせた一人のクリスチャンの語る聖書の言葉に応じただけでした。以上の過程をちょっと詳しく分析してみます。
(1)このような状態に立ち至ったのは私の不誠実と自己本位という罪の招く当然の結果でした。これはごく普通にこの世において起きている事態であって、これ自体には何らの特別な要素もありません。

(2)私がこのような状態にあったとき、一人のクリスチャンと出会った事件は、当時の私は単なる偶然と思っておりました。しかしながら、どうしてそのような時に彼がそこにいてくれたのか、これはとても不思議な事実です。ここに私の意志が関与する余地はありません。生命の存在の場合と同様に、それを単なる偶然(確率論)と見るか、誰かが用意してくれた(神の摂理)と見るか、これが不信仰と信仰の分岐点です。

(3)御言葉に対して私の内なる欲求が生じたわけです。この欲求自体は私が意志でコントロールできるものではありませんでした。喉の渇きが生じるのと同様の事態です。ここには私の意志は直接的には反映しませんが、それ以前の事態を招くにあたっては、利己主義的な自分の意志の働きが大きな原因であったわけです。

(4)内なる渇きを癒したいという願いを得て意志表示をしたわけです。これはまったく自分の自由意志を用いた結果でした。喉の渇きを癒すのに、水を飲むのか、コーラを飲むのか、その対象を選択するのとまったく同様のプロセスであり、私はイエスによって癒されることを選択したわけです。

(5)私の意志表示を神は受け入れてくださり、それに応えてくださった結果です。ここには私の意志と神の意志がちょうど凹と凸のように見事にはまりあっています。

以上をまとめますと、私が自分ではどうしようもない事態に立ち至っていたとき、たまたま出会った人を通して聖書の言葉を聞き、それを受けたいという欲求が私に生じたため、その意志表示をしたところ、それが受け入れられて神の救いを得たとなります。

ここで神の意志と人の意志に関して整理してみましょう。神はすべての人が救いを受けることを意図されます(神の意志)。そのための手順はイエスによってすでに完了しています(神のわざ)。後は人が自由意志をもってそれにどう応答するか(人の意志=信仰)が残されているわけです。

この辺りはクリスチャンにとりまして、一人一人の経験がすべて異なりながらも、それぞれみな素晴らしいプロセスであり神の意志と人の意志が微妙に綾なされて構成されています。ですから、とても一般論として思弁的あるいは哲学的論考に乗せることができないのです。ただ言えることは、求めれば得られる、叩けば開かれる、捜せば見出すということです。そしてここには人の自由意志が最大限働く余地があるのです!

(C)唐沢治

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