善悪の見極めについて



Dr.ルークは、クリスチャンの歩みは「いのちの道」によるのであり「善悪知識の道」によるのではないことをよく言われますが、では善悪の判断はしてはいけないのか、と問われます。ヘブル書5章14節に「善悪を見分ける感覚を訓練された大人」という表現があります。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

すなわちこの「善悪の見分け」はいのちの感覚によるのです。そのためにはある一定のいのちの経験が必要です。私たちの生まれつきの善悪や、この世の価値観、道徳、倫理、思想、さらには聖書解釈による善悪ではありません。それは感覚による判断です。そして感覚はいのちのものです。霊の人はすべてを判断するのです(Tコリント1:15)。内にいます御霊と私たちの霊が相互作用することにより生じます。よって人の聖書解釈とは食い違うことがあっても御言葉の真理と矛盾することはありません。

今回例えば2003年のイラク戦に対しても同じ聖書に基づいて喧々諤々の議論が展開しています。ある人はブッシュを神が建てた聖書をよく理解しイスラエルの利益の為に行動する立派な指導者であると褒めちぎり、ある人はやみくもに戦争を起こしたい愚かな人物であると評します。さて、一体どちらなのでしょう?わたしはそのような質問をされる時には判断を押し付けることはしません。かえって次のように答えます:「あなたの心の深くにはどのような感覚がありますか。理屈を超えて何か感じるところがあるはずです。それがあなたの内にいますいのちなるキリストの感じ方です。うちなるその感覚を大切にして下さい」と。

ここでポイントになるのは、表向きの言葉(表現)はしばしば真実ではないということです。人は自分の内なる真実と外なる表現が一致する時には何らの葛藤も感じることなく、平安と安息と共に満足を得ることができます。外なる言葉数が多い時はしばしば内なる真実と外なる思い(理屈)が一致しない時です。かくして内なる真実と外なる言葉数は互いに反比例します。表の言葉は理屈が通っていても、時には聖書的であったとしても、何か変だという違和感を覚えるものです。

例えば今般(2003年)北朝鮮の美女軍団が横断幕の金正日の写真が野ざらしになっていることを嘆き悲しんでいる状況が報道されました。彼らの主張は「偉大なる首領様の写真がこんなに惨めに晒されている。」と言うことですが、その表現にはどこかうそ臭いものを感じざるを得ず、演技的要素を覚え、理屈を超えた違和感を禁じ得ません。これがうちなるいのちの感覚です。しばしばカルトではこの自然な内発的ないのちの感覚の発露を、外なる"神聖にして犯すべからず何か(人物や教義など)"によって抑圧することがなされます。この場合意図的な抑圧がありますので、不自然な違和感を醸し出します。

ヘブル書で語る「善悪を見分ける感覚を訓練される」とは、実は霊が訓練されることに他なりません。私たちの霊は罪の中で死んでおり、イエスを信じたときに超自然的に再生され、生き生きと機能するようになりました。霊には御霊がキリストのいのちをもたらし、私たちのうちにキリストが生き、キリスト御自身が創り上げられつつあります。現在私たちのうちにおいて御霊によるキリストの構成がなされていますが、これをメタモルフォーシスと呼びます。ガラテヤ4:19に「キリストがあなたがたのうちに造られる」とありますが、ここに使われています。元々の意味は昆虫などが成長する時にその姿を変える様(変体)のことを意味します。

私たちの霊が養われ、うちにあるキリストが構成されるに従って、そのいのちが豊かな感覚を持つようになります。いろいろな場面において、今までは私の魂の感情や思いが反応していたのですが、魂ではなく霊が反応するようになります。霊のいのちがまず反応するのです。その内にあるいのちの感覚が魂の感情や思いに反映されて、私たちの意志により、外側に表現されるようになります。こうして霊のうちにあるキリストの感情や思いが私たちの魂を通して表現されるようになります(霊と魂のかかわりはこちらを参照して下さい)。そのために魂は霊に服する必要があり、よってイエスは、自分の十字架を負い、魂を否みなさいと命じておられます。

預言についてもまったく同一の機序によりますが、大切な点はいのちの成熟と霊と魂の分離です。霊が魂から自由とされ、霊のいのちが十分に成長するほどに、私たちの魂のうちにキリストの感情や思いが反映されるようになります。パウロはその極致を「もはや生きているのは私ではなく、キリストである」(ガラテヤ2:20)と証ししています。内にある I AM なるキリストが実体化されることです。これは信仰によります。かくして

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、霊のことは霊によってわきまえるものだからです。霊の人(原語)は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの思いがあるのです(1コリント2:14−16)。

とあるとおり、魂の人から霊の人へと脱皮(メタモルフォーシス)していくわけです。霊はあらゆる事柄を瞬時に理屈を超えて判断します。

あなたがたには聖なる方からの塗り油(原語)があるので、だれでも知識を持っています。・・・あなたがたのばあいは、キリストから受けた塗り油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです(1ヨハネ2:20,27)。

多くの場合、言葉数の多い、論理的に、理屈によって訴えてくるものには欺瞞があります。今日キリスト教会においてもあらゆる教えの風が吹きまわっていますが、振り回されてはなりません(エペソ4:14)。霊はすべてを見抜き、すべてを判断します。それはキリストの判断なのです。ますます霊を訓練し、霊の感覚を豊かにしていただきましょう。

(C)唐沢治

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