癒しについて



貧困、これらはもっとも深刻な人生の問題であり、罪の結果です。神はこの問題についてどのように対処されたのでしょうか?確かに罪は十字架で赦されます。では病と貧困はどうなのでしょう?これらは人が自分で解決すべきなのでしょうか?それとも神が何らかの対処をしてくださっているのでしょうか?

答えはイエスです!神は解放への道を十字架で用意してくださっています。

しかしこれについてはクリスチャンの間でも何と見解の分かれることでしょう。ある人々は「病の癒しは霊的な罪の赦しの象徴であって、実際に起きたのはキリストが地上におられた時と使徒時代までであって、現在では奇跡的な癒しなどは起きない」と主張します。ある人々は「現在においても使徒時代とまったく同様に、私たちに信仰がありさえすれば、奇跡的な癒しをしていただける」と主張します。

前者のような見解を持つクリスチャンを普通「福音派」とか「伝統派」と言い、後者のようなクリスチャンたちを「ペンテコステ派」、「カリスマ派」、「聖霊派」などと称します。しかし私はそのような分類自体が不要であると感じていますし、ただあらゆることを通してイエスの御名が高く揚げられることだけを願う者です。

20世紀の初頭においていわゆる自然科学思考によって信仰も理知主義の影響を受け、それを反省する人々が聖書への純粋な信仰に戻る運動を始めました。この時様々の形で奇跡や癒しなどが起こり、一種の信仰覚醒がなされました。ところがこれらの人々と伝統的な聖書解釈を重んじる人々の間でいろいろな摩擦が生まれました。彼らは「奇跡や癒しはサタンでもできるから、それが本当に神からのものかどうか分からないうちは危険である」など言ってと前者の人々を批判しました。現在でもまだ一部でそのような摩擦がありますが、両者が徐々に歩み寄り、互いに理解しあう方向へと向かっていることは事実です。

さて、聖書には何とあるのでしょう。とりあえず「解釈」は置いて、何のフィルターも通さずに生の御言葉を見てみましょう。例えば、
  • 主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し・・・(詩編103:3)
  • まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった・・・彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された(イザヤ53:4−5)(注)
  • 信じる人々には次のようなしるしがともないます・・・病人に手を置けば病人は癒されます(マルコ福音書16:18)。
    (注)マタイ福音書ではこれを引用し、イエスによってこの言葉が成就されたと言っております。

これらの御言葉では「罪は赦され」、「病は癒され」と明確に語っております。「病は罪を象徴する」という見解はあくまでも一つの「解釈」に過ぎません。イザヤ書にあるとおり、イエスは十字架上で「私たちの罪を負いAND病をになった」のです!これが生の聖書の言葉です。そして「信仰は神の言葉を聞くことから来る。聞くことはキリストの言葉による」とある通り、その生の神の言葉にどのように応答するか、その私たちの側の応答こそが信仰に他なりません。

私たちの側の「解釈」というフィルターを通す必要はありません。神から言われたとおりに聞き、受け入れ、信じること、これが私たちの側の責任です。英語で「責任」は"responsibility",すなわち「応答性」なのです。そして現在でもそのような柔軟な態度が私たちにあり、神の言葉に信仰によって答えるとき、確かに奇跡的な癒しも起きるのです!そのような証しは世界中で枚挙にいとまありません。ただ不思議なことにこれらの証しがあっても、信じたくない人々は自分の「解釈」を優先して、決して信じないのです。

癒しに限らず神と私たちの関係は、すべて私たちの側の神の言葉に対する容量"capacity"によります。イエスが地上にいたときも、律法学者は彼の言葉に対して「ひどい言葉だ。誰がこんな言葉を聞くに耐えよう」と言って、その言葉を拒否しました。しかしその「ひどい言葉」を信仰によって受け入れて、その幸いに与かった人々も多いのです。当時の律法学者にとってはイエスが病を癒すことより、罪を赦すことのほうが受け入れ難かったのです。現代文明に犯されている私たちはその反対です。赦しの福音は容易に信じることができても、癒しの福音を信じることは困難です。

ただしここで注意すべきことは、しばしば私たちはイエス御自身から切り離して、奇跡や癒しだけを求めてしまう危険があることです。聖書では「福音・真理の伝えられるところ」において奇跡や癒しが伴うとあります。奇跡や癒しはあくまでも福音・真理に付随するのです。真理とはイエス御自身であるからです(→「真理について」参照)。そして神は造り主であり、救い主であり、与え主であり、そして癒し主であるからです。神を知ること無しに決して信仰を持つことはできません。私たちが神たるお方を知っている範囲と深さにおいて、その御言葉をそのままに受け入れ、信じることができるからです。この点神から離れて「自分は癒しを信じる、信じる、信じる」と強く念じてみても決して癒しは起きないで、むしろ失望するだけでしょう。神を知ることと信じることは互いに相補的であり、ある面で同じことであるからです。

また究極的な体の贖いはイエスの再臨の時に完成されますから、奇跡的な癒しがあっても死は必ず訪れます。さらにドクターにかかったり、薬物を飲むのは不信仰であるとか、「信じたら」患者を無理やり退院させてしまうとか、そのような考え方は大変危険です。現代においては医学の進歩によって人間に委ねられ、人間がコントロールできる領域も広くなっていますから、神は適切なドクターへと導いて、彼を用いて癒してくださることもあるからです。信仰と医学は決して対立しません(→「科学と信仰」参照)。

(C)唐沢治

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