「包括(一体化)」の原理について


神がアダムとエバと造られた時、いのちの木善悪知識の木を彼らの前に置かれました。いのちの木はもちろん神ご自身の非受造のいのち(Zoe)を表わします。善悪の木は神から離れて独立して自分の価値判断によって生きる生き方を象徴します。アダムとエバは神の命に逆らって善悪の木の実を食べました。ここで彼らはいのちの木の路線から善悪の木の路線に落ち、を得たわけですが、大事な点は彼らだけではなく、彼らの腰の中にいた全人類に罪が入ったのです(ローマ5:12)。たった一人の違反によって、全人類がその罪の負の遺産を背負い込んだわけです。なぜなら全人類はアダムから出ているからです(ルカ3:38)。

このため私たちは親から生まれた時にすでに罪人だったのです。何か悪を行ったから罪人と宣告されたのではなく、アダムの系列に生まれたから罪人だったのです。これはきわめて不条理なことですが、人間存在は元々不条理なのです。生まれたくて生まれるわけではなく、死にたくて死ぬわけでもない。私たちは自分の意志によってこの世に生まれていないのです!ポイントは、アダムの系列に生まれれば自動的にアダムの負債を受け継ぎ、自動的に神の前では罪人の立場を得るのです。ですから人は誰にも教えられることなく罪を犯します。

そこで神の救いはこの過程をそっくり入れ替えることによります。イエスの十字架は、単に私たちのもろもろの罪を赦すためだけではなく、実は系列の転換を可能とするのです。アダムにあって生まれた私たちは自分の努力では決して義人となることはできません。これは私たちがどう頑張っても皇族になれないのと同じです。生まれが違うからです。そこで神の救いの方法は、アダムにあって誕生した古い私を抹殺することから開始されます。キリストが十字架に架かったのは、もちろん私たちの身代わりとして裁きを受けて下さったのですが、しかしそれにとどまらず、私たちも共に十字架につけられたのです(ローマ6:6)。キリストが裁かれたとき私たちもキリストと共に裁かれ、キリストがしなれたとき私たちも共に死に、キリストが復活されたとき私たちも共に復活したのです(ローマ6:8)。つまりアダム系列の私を終わらせ、キリスト系列の私が復活したのです。

お分かりでしょうか。ここでは系列の転換が起きています。物理的にも、もし私が現在の私の家系において死んで、皇族の家系に生まれ直すことができれば、私は自動的に皇族となります。神はこれを霊的領域においてなして下さったのです。今や私たちはアダム系列にあって死に、キリスト系列、つまり神の皇族の系列に生まれ直して下さったのです(1コリント15:22)。このようにキリストの十字架には二面的効力があることを知ってください:ひとつは私たちの身代わり(Substitute)の面、もう一面は私たちとの一体化(Identification)の面

前者は良く語られますが、後者はあまり語られません。アダムにあって生まれた私たちは自動的にアダムの立場と性質を継承した罪人でした。これは私の行いによりません。アダムの行いによることです。そのアダムの中に置かれたゆえに、私は罪人だったのです。その罪人はキリストと共に死に、キリストと共に復活することにより、キリストの立場と性質を継承し、義人とされたのです。これは私の行いによりません。キリストの行いによるのです(ローマ5:16-19)。かくしてキリストが受けられた究極の不条理によって、私たちの不条理はキャンセルされたのです!

そこで疑問が生じます:私はアダムの時代には生まれていなかったし、キリストの時代にもいなかったのに、どうしてアダムの経験とキリストの経験に与ることができるのか?回答は次にようになります。みなさんはアエロフロートに乗ったことがあるでしょうか。飛行機の中でサービスとして人形をくれます。この人形の中にはワンサイズ小さい同じ形の人形が入っていて、さらにその中にまた小さい人形が入っていて・・・。実はこれと同じです。ヘブル7章を見てみますと、アブラハムが戦利品の十分の一をメルキデクに捧げた時、本来ならば十分の一を受けるべきレビですらメルキデクに十分の一を捧げたことが論証されています。これによってメルキデク系の祭司制度がレビ系の者よりも偉大であることを示しているのです。

このときにその論拠をこう言っています:「というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」レビはまだ生まれていませんでしたが、アブラハムの腰の中にいたことにより、アブラハムの行為をしたことになるのです!これを「包括(一体化)の原理」と呼びます。神は時間と空間を越えたお方です。ですからアブラハムの子孫レビが物理的には誕生していなくとも、すでにそこにいたと見ておられるのです。私たちも同じです。アダムが罪を犯したとき私たちはアダムの腰の中にいたのであり、よって私たちもそこにいたのです。またキリストが十字架に架かられた時、私たちもその中にいたのです。きわめて単純です。

時間と空間に縛られている私たちは理解できませんが、聖書に書いてあることにより、信じることはできます。このキリストとの一体化、すなわち「包括の原理」に与るための条件が信仰なのです。信じない人はすでに罪人ですから、彼がどのような行いをしようとしまいと、すでに裁かれているのです(ヨハネ3:18)。信じる者はキリストと一体化され、死からいのちに移されるのです(ヨハネ5:24)。信仰とは単にキリスト教の教義を信奉することではありません。「われは・・・を信ず」とお題目を繰り返すことではありません。信仰はキリストのいのちとひとつとなること。キリストに継ぎ合わされることです(ローマ11:24)。霊的領域において私たちの霊と主の霊はひとつなのです(1コリント6:17)。

このとき私の努力によらず、キリストが持っているもの、その神の前での立場、その行い、そのご性質が自動的に私のものとなるのです。借金の家系でその重荷を継承した子供が、その家系にあって死んで、資産家の家系に生まれ変わるようなものです。すべて自動的です。いのちが交換されるからです。かくして信じた者は自分のわざを止め、安息に入ります(ヘブル4:3)。神の民のための安息に入る余地がまだ残されているのです(ヘブル4:6)。神がキリストにあってなしてくださった御業をただ信じて安息し、その良き嗣業に与りましょう。
(C)唐沢治

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