科学と信仰


−知識の木の実と命の木の実−



医学博士

唐沢 治


1.はじめに―意識に目覚めて

一般に「科学と信仰」と言いますととかく対立するものであって、「信仰」は人の理性があまり発達していない中世時代までのものであり、ルネッサンス以降の「科学」の発達によって人類は迷信の呪縛から解かれ、現在の豊かさを享受し得るのだと思われているようです。果たしてその通りなのでしょうか。

例えば近代物理の基礎を作ったニュートンはクリスチャンでした。彼は神学者でもあって、聖書の本格的な研究者だったのです。いったい「科学」と「信仰」は対立・矛盾するものなのか、その関係はどうなっているのか、さらには「信仰とは何か」、「科学とは何か」などの疑問が生まれます。これらの大きなテーマに答えることは私の能力が及びませんが、あくまでも私の能力の範囲において述べさせていただきたいと思います。


2.科学する動機―自己存在の不条理性と不確実性

そもそも「科学する動機」とは一体何でしょうか。どうして人は科学するのでしょうか。例えば進化論をとって見ましょう。ここに「私たち人間がいる」という事実/現象は否定しようがありません。生まれたくて生まれたわけでもなく、死にたくて死ぬわけでもないという不条理な存在として私たちは現にここにおります。カフカなどの実存主義文学者であれば、その不条理性を「ある朝、ぼくグレゴール・ザムザは目を覚ましてみると芋虫になっていた」と表現するわけですが、私たち自然科学者はそのような豊かな発想やそれを表現する文才がないために、もっと泥臭い作業をするわけです。

つまり自分の実存の不条理性・不確実性に対して、自分を納得させ得る説明を与えようとするのです。ここでの動機はあくまでも心理学的なものであって、自己の内的不安定性あるいは内的葛藤を解消し、自らの精神の安定を担保することがおそらくは第一義的な動機です。「現代進化論」では、自然の巧妙なメカニズムにより、アミノ酸などの有機物質から人間まで、数十億年をかけてすべて確率論的に進化したとし、確率微分方程式などを用いて生命の進化過程(特に分子レベルでの)を説明するわけです。そして自己の存在の不条理性と不確実性に対する説明を与えて納得することにより、とりあえずの精神の安定を図るわけです。

自然科学の中でも最も精緻にその理論体系を確立し得て、最も成功を収めていると思われるのが物理学です。よく知られている逸話としてニュートンの例があります(注)。彼は「リンゴが木から落ちる」という現象を見て、それに対する説明として「万有引力の法則」を与えました。また微分積分を発明して、いわゆる「運動方程式(微分方程式)」によって、天体の運動をきれいに説明しました。彼はこのように数学という表現形式を用いて、物理現象を記述することに成功したのです。

またアインシュタインの相対性理論では、特殊の場合は「ミンコフスキー空間」における1次変換、一般の場合は「リーマン幾何学」というフレームを用いております。画家ならば絵の具を用いて、詩人ならば言葉を用いて自然現象を記述するでしょうが、自然科学者は数学という言語を用いるわけです。いずれにしろ、「現象を説明する」ことがその仕事の核心です。この仕事を「(数理)モデル」を作ると称します。

(注)ニュートンは自然科学者でしたが、同時にクリスチャンであり、神学者であって、聖書の本格的な研究者でもあったことは日本人はあまり知りません。彼の研究の動機は「神の創造の美しさを証明する」ことであり、彼の認識空間から神を排除することではなかったのです。この辺りの歴史的考察は米国神経科医長谷川氏の論考「聖書と科学」が大変参考になります。


3.実存受容の間接化―メタ言語の問題

このように人は自分の存在を含めた自然現象をそのままに受け入れることが何故かできず、それに対してワンクッション置いて、何らかの説明を与え、モデルとして自己の内的認識空間にうまく納めないと不安を覚えてしまう傾向があるのです(注)。流行語を用いますと、「現象のヴァーチャル化」を図るわけです。ヴィッドゲンシュタイン的には「言語は世界の映像である」となります。このような「認識の枠組み(フレーム)」がいわゆる「理論」なのです。

例えば英語を初めて学び始めることを考えてみますと、最初は日本語による説明によって「be 〜ingは現在進行形と言って、現在行われている行為を表す」と教わります。これが「認識のフレーム」であって、これが内的に形成されると、次にbe 〜ingの形が出た時私たちは「現在進行形」と認識することができ、その意味することも理解できるわけです。

しかし英語を母国語とする人々は何もこのような遠まわりの認識過程を経ておりません。彼らは直接経験の中で英語を把握し、be 〜ingを見れば、「現在進行形」などという「認識のフレーム」などを通すことなく、ただちにその内容を把握できるのです。このように言語の文法を説明する別の言語を「メタ言語」と言います。また私たちも日本語を学ぶのに何も文法書を紐解いたのではありません。幼児期に直接に日本語に曝されていた結果、いつのまにか日本語が定着していたのです。母国語を取得する過程には「メタ言語」は必要なかったのです。

(注)聖書的には「知識の木の実」を食べたためですが、精神分析学者の岸田秀氏は、「人間は本能が壊れており、そのため適応ができなくなっており、外界と直接に接すると自我に傷を受ける危険性があり、それを恐れて、自己防衛反応として外界と自我の間に『隙間』を設けるのだ」と説明しております。

物理学においても事態はまったく同様です。「リンゴが木から落ちる」という現象があります。これを「数学」という言語によって説明し記述します。すなわちこの場合の「数学」は先の英文法の説明のための「メタ言語」に相当するのです。このようにして現象そのものを直接体験することを避ける人間の心理機制によって、現象に説明を与えることにより、間接的にその説明を内的認識空間に取り入れることによって、精神の安定を図るわけです。

ところがここで深刻な問題が起きます。(古典的)進化論者はよく次のように言います:「突然変異」と「自然淘汰」というメカニズムによってこれほど精緻な構造と機能を持つ人間まで進化したのは、まさに「自然」のすばらしさを証明する、と。つまり彼らは「自然」そのものを生命現象を説明する「メタ言語」として用いているのです。ではその「自然」を説明するとなるや、「メタ言語」がなくなってしまうのです!「自然は素晴らしい」は良いとしても、ではその「自然」はどうして進化を誘導し得る素晴らしい能力を有しているのかについて「進化論」自体は説明できません。

そこで物理学者は「自然界は法則を持つ」と説明して、その自然法則をあらゆる物理現象の「メタ言語」として用います。出来得るならば、その法則によって生命現象まで説明し得ることを願っているのです。しかしながら、何故自然がそのような法則を持ち得るのか、物理学自体は説明し得ないのです。つまり自然現象を説明する「メタ言語」は数学で記述される「物理法則」ですが、では自然界になぜその「物理法則」が付与されているのかを説明することは物理学自体はできません。つまり「物理法則の存在理由」を説明する「メタ言語」は何かとなると、文字どおり言葉につまるのです。

現代物理学は「宇宙は時間も空間もない特異点がビッグバンすることによって開闢した」として万物の起源を説明しますが、ではその特異点とは何か、なぜビッグバンが起きたのか、それ自体を現代物理学は説明できません。例のホーキングは虚数の時間があったのだとして、尖った特異点を丸くする努力をしておりますが、それとてもなぜ虚数の時間があったのか、それは彼の理論の枠組み内では説明できません。

つまりある「事実」を説明するために「メタ言語」が必要となり、さらにその「メタ言語」を説明するための「メタ「メタ言語」」が必要となり、さらに「メタ「メタ「メタ言語」」」・・・が必要となるという「無限後退性」という深刻な問題にぶつかるのです。ですからどこかで止めないと人間の精神は破綻を来たすでしょう。そこで人は自分の採用しているレベルの「メタ言語」による「認識フレーム(モデル)」を崩されることを恐れ、何とかそれを守る努力をします(注)

(注)宇宙の起源に関する天文学者の内的葛藤を告白した興味深い文献があります(→「天文学者と神」)。自分の作ったモデル(理論)を現象(事実)そのものより優先することを、自分の作ったビーナス像に恋をしてしまった彫刻家ピグマリオンにちなんで「ピグマリオン症候群」と言います。

ひるがえって東洋の禅などではこのような人間の認識プロセスの間接性と矛盾性に古くから気づいており、そのような知性によって実在に触れそこなったり、精神が乱されることを避けるために、いわゆる「直接体験」あるいは「純粋経験」を追求してきました。つまり現象を客体として客観的に観察して記述・説明する(モデルを作る)のではなく、むしろその現象自身と客体も主体もなく一つとなる境地を追求してきたのです。

有名な禅学者鈴木大拙は東洋と西洋の姿勢の違いについて、芭蕉の句:「ふと見ればなずな花咲くかきねかな」と、テニスンの分析的説明的な花に関する詩を比べております(『禅と精神分析』)。芭蕉はこのなずなにふと気づいた時、なずなを分析説明するのではなく、なずなと一つとなってその可憐さに看とれ、主客の分離のない境地にあったのです。これに対してテニスンはその花の構造や属性などを客観的に分析し、説明を加えているわけです。鈴木大拙はこのように分析し記述をするならば生命はこわれてしまうと警告しております。

そして主客の分離のない、主客が一つとなる世界を「即非の論理」と言っております。それは「AがAであってAでない世界である」と言うのです。鈴木大拙の親友であった西田幾多郎は「多が一であって一が多である世界」を「絶対矛盾的自己同一」という言葉で表現しております。その世界は知性の枠組みでは把握し得ない、ただ体験的にのみ了知し得る世界なのです。


4.究極の実存―宇宙のメタ言語としての神

では私たちクリスチャンはどうなのかと言いますと、実は究極の「メタ言語」として神を知っているのです。自然の素晴らしさは神が創られたものであり、物理法則の付与者も神であり、生命の起源も神である、と!「科学」とはその神の創造の構造や成り立ちを知るための作業であると。よって「信仰」と「科学」はまったく矛盾することなどあり得ないのです(注)

「信仰」は万物の源である神を知る機能であり、「科学」はその神の創造を知る機能であるからです。先の「無限後退性シンドローム」に陥っている人は、「万物の起源は『神』にあるのはよい、しかしその『神』はなぜ、どのように存在に至ったのか」と質問するでしょう。私たちクリスチャンはこう答えます:「分かりません」と。それを納得し得る能力自体この大脳には付与されていないのです!目は電磁波である光を感知し得ますが、音は聴けません。耳は音波を感知し得ますが、光は感知できません。人間の大脳も同様の限界を有しているのです。知性は神を感知し得ません。そして神の存在の原因などはまして知り得ないのです。

私たちクリスチャンは造られた者としての限界を認めます。知性の限界を認めます。その上で啓示という手法によって神の存在を自己の存在とあらゆる現象の究極的な「メタ言語」として認めます。その時経験的に内的葛藤から解かれ、精神の安定性を得て、いわゆる「認識のフレーム」などを要しなくなり、恐れることなくあらゆる事態をそのままに受け入れることができるのです。そしてここに至るにはどうしても信仰と不信仰の間の一線を越える必要があるのです。信仰こそが先の「無限後退性」にストップをかけ得るのです。

(注)注意しなくてならないのは、「科学」の観測手法が未熟でそこから得られた不十分な観測結果に基づく「科学知識」が聖書の記述と矛盾することは十分あり得ます。「進化論」はその典型でしょう。また聖書そのものに対する誤解や読み違いの結果、「科学知識」と聖書の記述が矛盾するなどと言われます。例えば聖書は「天動説」に基づいていると言われていますが、聖書には「天動説」など書いてありません。すなわちここで言う無矛盾性とは、人間の「科学する」精神機能と、神を「信じる」精神(正確には霊的)機能の間におけるそれです。


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