『沈黙』の評価に見られるそれぞれの心のマトリックス
実に面白い。かつての『パッション』も『サン・オブ・ゴッド』、そして『ノア』などの作品に対する評価は実にバラバラ。これ、要するにそれぞれの内なる「神」像、つまりマトリックスを投影しているからに他ならない。『沈黙』により、人間の弱さを知り、その弱さに同情を惜しまず、むしろ自分が足蹴にされる神を見る人は自己憐憫のマトリックスを投影している。
苦しむ人々を無視してあくまでも自分の信仰を貫くことが真に神の御心に沿うのかどうかとか・・・、遠藤周作の心のマトリックスから染み出した問題設定に「うーむ」と呻きつつ、人間の負っている宿命的不条理が・・・とかやる人は、十字架の真の意味が分かっていない。オツムの空転に陥っている。
よろしいですか、御言葉なんと語っているか。フェイスによらないことはすべて罪(Rom 14:23)。ゆえにフェイスによらない愛は罪。十字架を経ていないヒューマニズムの愛は、魂のものであり、強調するが、罪である。しかし愛の欠如したフェイスは虚しい(1Cor 13:2)。虚しいのであって、罪ではないから注意されたい。大切なのは愛によって働くフェイスである!(Gal 5:6)主体はあくまでもフェイス!愛はフェイスの培地である。
今、フェイスとは願う事柄のサブスタンス、見ていない事柄の立証である。―ヘブル11:1
フェイスがなければ神に喜ばれることはできない。―ibid 11:6
主は言われた、わたしよりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない。つまり神の愛はセンチメンタルではない。ハードコアなのだ。すべての事について言えることだが、各人のマトリックスの投影である以上、意見や感想の一致などは見られるはずもない。またそのようなすり合わせは無意味。究極的にジャッジするのは御言葉。
神の言葉はもろ刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄、霊と魂を切り分ける。―ヘブル4:12
そう、愛も霊的サブスタンス、それは魂の感情由来のものではない。霊から生まれるものなのだ。この切り分けができるか否か、これはいずれ神の前にひとりびとりが立つときに明らかにされる。
なお、これを言うと興ざめだが、所詮、小説の世界、映画のオハナシに過ぎない。マジになるものでもないのだ。
追記:やはりもっとも安心して誰にでもおススメできるのは『ベン・ハー』だ。最近のリメイク版はどうなっているのでしょうか?どなたがご存知ですか?
ルカ
そう思います。カトリック側でも一時、禁書的な扱いを受けたようです。大物神父が猛批判されています。
カトリック側による沈黙批判
http://blog.goo.ne.jp/catholic_info/c/e0b972781548ffb2dee1429d1e5a78a6