Dr.Lukeの一言映画評―『ドクター・ストレンジ』
- 2017/01/31 17:51
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:映画, 信仰
- Tag:フェイス, 霊的サブスタンス
いや、コレ、かなり面白い(⇒公式サイト)。
天才的な脳外科医でありながら、不慮の事故で両手の機能を損なわれたストレンジ。彼は両手を治して天才外科医として完璧だった人生を取り戻そうと様ざまな治療を試みるが、どんな最先端医療をもってしても完治する見込みはなく、財産も使い果たしてしまう。プライドが高く勤務医になることも受け入れられなかったストレンジは、失業し貧困に苦しめられることに…。そんな時、どんな傷も治せる魔術師の存在を知り、チベットへ。治療の代償として弟子入りすることになったストレンジは、修行の末に魔術を取得。強大な敵の登場や兄弟子的存在のモルドーの言葉に、悩みつつもヒーローとして目覚めていくが…。
サイエンス至上主義の天才外科医が霊的世界に覚醒する。常識に縛られるな;われわれが知っている世界はごく一部;世界の本質はスピリット;マインドが現実を生み出す;信じることが肉体を再生する;世界を構成するコードを操作する;葛藤は時間に束縛されることによる;時間を超えた現在を楽しむ・・・と。アレ?どこかで聞いた言葉ではないか。そう、ドクター・ルークが説くフェイスの世界だ
一つ目のシンボルが登場するので、アッチ系であることは間違いないが、これは聖書のパクリなのだ。まことにジーザスが今、地上にいたとしたら、まことにドクター・ストレンジのまんまであろう。一方のキリスト教は『沈黙』で象徴されるような有様。最初の人アダムがエデンの園で喪失したFPPA(フェローシップ;プロテクション;プロヴィジョン;アサインメント)を以前として奪われたまま、iPAIすなわちアイデンティティー;ポジション;アビリティー;インヘリタンスに覚醒することもなく、自己憐憫のモードにあって、ほとんど窒息寸前の状況。聖霊はオツムから流れるのではないが、懸命に理屈をこねてる有様。
それらは最後のアダムにして第二の人であるジーザスがゲットバックして下さったのである。霊的リアリティーとサブスタンスを見て、フェイスに覚醒するならば、それらすべてが私のものとなる。何もカトマンズを訪れる必要はないのだ。
ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。・・・世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。-1コリント3:21-23