意識の扱い方-キリスト者と仏教徒-
FBで流れてきたこの記事にちょっとコメントした。
このBlogでも何度も指摘しているが、道元は『正法眼蔵-現成公案』にて書いている:
仏道をならふといふは,自己をならふなり。 自己をならふといふは,自己をわするるなり。自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
クリスチャンと禅者は、いのちと法の違いなのだ。われわれは旧創造のいのちではなく、新創造のいのちを得て、その新しいいのちの法に任せて生きる者たち だ。が、自己をわすれることにおいては共通する。イエスは、自己を否め、と言われた。これは自己疎外ではない。自分から意識が離れること、つまり心身脱落 すること。
すべての苦悩や葛藤は自意識から生まれることは誰もが納得であろう。善悪を知る知識の木の実を食べたアダム系人類の宿命だ。イエスはその旧人類を終わらせ た!そして復活し、キリスト系の新しい人類を生み出したのだ。仏教の救済は自己からの解放のレベルまで、残念ながら新しい創造はどんな修行をしても得られ ないのだ。それはGodのみが成し得るスーパーナチュラルな現象だ。