詳説、いのちの路線と善悪の路線
- 2016/04/07 22:03
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:いのちの路線, 善悪の路線, フェイスの覚醒, マインドのトランスフォーメーション
よく、この平面の違いって何ですか?と聞かれる。前はあれこれ理屈を言っていたが、最近はもっと先鋭化した表現をしたいと思う。
善悪の路線とは、要するに地的領域、物理的時空間、主観的には五感によって実体化される領域にこの肉体を精神をもって生きることだ。いわゆる両親から生まれた存在としての私。そしてその私が経験するあれこれのすべて。ナチュラルな領域であり、これは信者、未信者問わずに誰でも分かる。が、この領域すらも11次元空間の3次元+1次元における断面に過ぎない。霊が死んだままのとき、この肉体とブレインは3次元空間と時間のみを知覚できる。この世界の経験で条件付けされ、構成された私を肉(flesh)と呼ぶ。
いのちの路線とは、霊的領域に生きることであり、それは霊的世界にある。スーパーナチュラルな霊の再生により、霊的領域に誕生され、新しい創造物とされることによって、その領域にアクセスできる。それはキリストの領域ともいえるが、時空間を超えた永遠のNOW。これは文学的表現ではない。リアル。われわれ、ニュー・クリーチャーはその領域の住人。イエスがこの世のものではないのジャスト・セイムに、われわれもこの世のものではない。要するにイエスもわれわれも、その本質は霊であり、この世においてはエイリアンなのだ。その領域に生きるためにはフェイスを使うこと。フェイスとは永遠のNOWにおけるスーパーナチュラルな能力、願うことのサブスタンスであり、見えないそれの立証、実体化である。しばしば理性、マインドを超える世界である。
どうしたらいのちの路線に生きることができるのか?もちろんそれは霊の再生によるフェイスの覚醒。フェイスの用い方に習熟する必要がある。日本語のいわゆる「信仰」とは微妙に異なるので注意されたい。真理は元々日本語で考えてはならないのだ。それはオツムであれこれ議論することでもなければ、聖書をオベンキョウすることでもないし、御言葉を解き明かすとか、御言葉をこねくり回すことでもない。目が見える人にとって視覚が説明の要はないのと同様に、霊が生きている人にとっては説明の要はない。前にLAをガイドブックで知ることと、現地を訪ねることの違いで説明したとおりである。
で、繰り返すがマインドの再構成が必須。魂的マインドはこの物理的領域において条件付けされているために、霊的世界を理解することができない。マインドがトランスフォーメーションされるほどに、霊の働きが阻害されず、霊的領域の現象がクリアに見えてくる。キリストのマインドがアクティベーションされるとこの五感の領域の見方もすべて変わる。今までの自分が五感のカプセルの中にいたことが分かるのだ。このとき祈りはこの霊的領域を動かす。しるし・不思議、そして癒しもこの領域で起きること。もちろんいわゆる聖化なども含めて、クリスチャンのあらゆる経験はすべてがスーパーナチュラルなのだ!