フェイスはスーパーナチュラル
というと、けっこう抵抗を覚える人がいるようだ。大切なのは普通の人間としての日常生活だとか・・・。嗚呼、彼らは大いなる勘違いをしている。彼らに聞きたい:私たちはキリストと共に死んで復活した、とある(Rom 6:1-5)。あなたはこれを信じるか?
当然、信じる、少なくとも福音派ならばそう言うだろう。あるいは言わざるを得ないであろう。ならば、あなたはスーパーナチュラルを信じなくてはならないのだ。なぜ? 二千年前のあの事件のときあなたはどこにいたのか? そう、あそこにいたのだ! これを実体化するのがフェイス。つまりフェイスは物理的時空間を超えて、タイムトラベルするのだ。ちなみに日基のある牧師が、今の自分と二千前のイエスという男と何の関係があるのか、と書いていたが・・・嗚呼。
私たちはアダム系においては終わり、キリスト系の新しい人類、新しい生命体、ニュー・クリーチャーとして復活されたのだ。よく「自我を十字架につけてぇ~」と叫ぶ向きがあるが、まことにお疲れさま。それはすでに終わっている!(Gal 5:24)そもそも主は言われたではないか、完了した、と。すでに聖とされ、すでに完成されている(Heb 10:10)。これが真理、つまり霊的サブスタンス。宗教的クルシチャンから解放されよ。
癒しも同じ。神さま、癒してください、憐れんでください・・・。これはポイントを外している。神は言われるのだ、すでに癒されている、と! いつ? あの事件のときだ。カルバリに私はいたのだ。だから、彼の打たれた傷により癒された。完了形! フェイスは希望ではない。フェイスは霊的事実、つまり真理(Truth)を扱う。それは霊的サブスタンス、すでに用意されている。もっと言えば、イエスは永遠の昔からすでにほふられていたのだ(Rev 13:8)。カルバリの事件はその霊的サブスタンスがこの物理的時空間に現出したものだ。
では、なぜ癒されない人がいるのか? 簡単だ。五感に生きる人は言うであろう、自分にはまだこれこれの症状があると。それは物理的時空間における事実(facts)に過ぎない。マトリックスだ。その訴えがフェイスの欠如を証明してしまっている。よく、「信じれば癒される」と言うが、これはトリック。フェイスは願うことのサブスタンスそのもの、そしてその立証(Heb 11:1)。つまりフェイスそのものが癒しなのだ。それは癒しの条件ではない。
その他、ボーンアゲインから、キリストの内住、聖化や必要の満たしなど、ありとあらゆる私たちの経験はすべてフェイスによる。なぜ? フェイスによらないものはすべて罪だから(Rom 14:23)。かくしてフェイスはこの五感の世界、物理的時空間を超えて働くのだ。カルバリの事件は単なる歴史的事実ではない。今、ここに、展開している永遠のNOWのイベントである! それはフェイスによってのみわがものとすることができる。
いのちと敬虔にかかるものはすべてすでに与えられている。-2Pet 1:3
それは霊的領域のサブスタンス。それにタッチして、この物理的時空間に現出させる霊の機能がフェイス。
今や、フェイスは願うことのサブスタンス、見えないことの立証である。-Heb 11:1(私訳)
スーパーナチュラルでないフェイスがあったら、ぜひ見せてほしいと思うのだ。私たちがすでに得ているものを享受するカギは何か。フェイス。それはシックスセンス。まことに-
だれでも、願うものは何でも、祈るときすでに得ていると信じていよ。そうすれば得られるであろう。-Mark 11:24(私訳)
あとは私の著書をぜひどうぞ^^v
追記:フェイスを得るのは? われはアレを信ず、コレを信ずとやってもあまり意味はない。
フェイスは神のレーマを聞くこと、聞くことはキリストのレーマによる。-Rom 10:17
神のバイブレーションと言葉(ミレア)は全地に満ちている。電波と同じ。あとは私たちの霊がそれにチューニングされるかどうか。あなたは何にチューニングし、何を聞いて生きているのか。これがすべてなのだ。
ヒロンド
もろ手を挙げて、アーメン!ハレルヤ!