弟子は師以上には行けない
- 2016/10/22 11:48
- Posted by Dr.Luke Karasawa (唐沢治)
- Category:信仰
- Tag:エクレシア, 交わり, 模範
これはジーザスの言葉。私たちの究極の師はジーザスただひとり。しかし、五感の領域に生きる者として、初めにどのような福音を聞き、どのような礼拝に与り、どのような聖書の読み方・祈り方を刷り込まれるか、これ、後々までその人のフェイスのあり方に深く影響を与える。
「ワンマン・チャーチ」なるものはあり得ない。私たちは必ず交わりの中で霊のいのちを供給され、養われ、成長する。この意味で、目に見える自分のメンターたる存在は、祝福された霊的歩みにとって実に重要なのだ。そのメンターの霊的視力がどこまで届くか、それが私のフェイスの領域をも決める。良い模範、モデルを持つこと。この点、私は幸いだった。
『リバ新』と関わるまで私は、ニッポンキリスト教メインラインとか福音派とか聖霊派とか、ペンテコステ・カリスマとか・・・、その区別すらまったく知らなかったのだ。谷口氏にいろいろ教えてもらったが、彼も「この業界はすごい処ですよ」と言っていた。その間にある相克というか同類嫌悪みたいな現象も・・・。私にとっての当たり前がそこではそうでないことがよく分かった。その後、いやというほどこの業界の暗部を見せられた。
Colin Urquhartは私をただジーザスへとフォーカスしてくれた(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/Colin.html)。そしてこれからもただジーザスのみにフォーカスしていたいのだ。究極にはウォッチマン・ニーの模範があり(⇒http://www.kingdomfellowship.com/Encourage/encourageinf.html)、Colinもニーの影響下にあるが、<今、ここ>で、目に見える等身大の模範を持つことは幸いなのだ。小さくまとまるつもりはないし、1DKのフェイスもごめんだ。霊の視界をどれだけ広げていただけるか、カギはそこにある。