◆ 第2講 贖いの意味―単なる赦しを超えて― -------------------------------------------------- ロゴスの受肉―幕屋を張った神― 神のロゴスである御子は神性においては永遠の過去から父と共におられましたが(ヨハネ一・1-3)、時至り人間性を取られ、地上に幕屋を張り、人類の歴史に直接に介入されました(ヨハネ一・14、ガラテヤ四・4)。それは私たちの罪(sins)を取り除き(ヨハネ一・29:ここの罪はVincentによると集合的意味、第一ヨハネ三・5)、血によって私たちを贖うためでした(第一ペテロ一・18,19)。しかし御子の受肉はそれだけにとどまりません。三位一体の神の当初の意図はご自分のいのちを人類のうちに吹き込み、私たちが神のいのちによって生きるものとすることでした(第一ヨハネ五・12,13)。アダムとエバの関係で象徴される夫と妻の愛の関係の中へと私たちを召すためでした(エペソ五・25-32)。 神の三位一体は単なる神学論争のひとつのテーマであるばかりではなく、神と人類がいかなる関わりを持ち得るかを規定するのです。もし神が三位一体でなかったとしたら、人類は神と人格的な交わりを持ち得なかったことでしょう。御子にあって神性と人性を結合させることにより(ピリピ二・6-8、コロサイ二・9)、御子の人性を仲介者として(第一テモテ二・5)、その内実であった神のいのちを私たち人類に注ぎ込むためだったのです(第一ヨハネ一・1-3)。それは死と復活によってのみ可能となるのです(第一コリント十五・45)。 肉の処理−神の側と人の側− 肉の要素のうち罪(Sin)はアダムの責任であって私たちの責任によらず入り込んだものです。いわば私に罪があることは不条理なのです。よって私の責任は問われません。そこで罪については、私の意志の及ばない領域で神が罪を知らない方を罪とし(第二コリント五・21)、御子の肉にあって罪を処罰されたのです(ローマ八・3)。究極の御子の味わった不条理によって私たちの不条理をキャンセルされたのです。罪(Sin)はすでに十字架でその毒を抜かれているのです。私たちはそのことを信仰により受け取るだけです。これが「今やキリスト・イエスにつく者は自らの情欲と欲望と共に自分の肉を十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ五・24)の意味です。ここの肉は罪の要因のことを言っています。 一方肉の中の私(Self)の要素については現在の私たちが責任を問われます。ここでイエスは「わたしに従いたい者は自分の十字架を負って、魂を救おうとするな、・・・魂をすら憎め・・・」(ルカ九・24、十四・26)と言う言葉の意味が分かります。パウロは「御霊によって歩みなさい、そうすれば肉の欲望を満たすことはない」(ガラテヤ五・16)と勧め、また「御霊によって体の働きを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ローマ八・13)と証しします。ここで私たちは自らの魂(=自己の座)を否むことが求められるのです。これは私の責任です。すでに神が罪を裁いてくださっている以上、私たちの側に残された責任として言い逃れができません。私たちの言葉は「しかりか否」であるべきです(マタイ五・37)。 かくして肉に過ぎないものと堕した人類は、神の側の対処と自らの責任による対処が車の両輪のように働くときに、その肉から解放されるのです。あらゆる神のご計画は神の意志と人間の意志が綾なされて時間の流れの中で成就していくのです。何ゆえに神はここまで人を顧みられるのでしょう! 三位一体の奥義−その二面性− 神は永遠の過去から永遠に未来に至るまで、父、子、聖霊の三つの区別される位格にあって、しかし本質において唯一の神です。これは「本質的三位一体」と言えます。知性で理解することは不可能であり、ただ信じるのみです。神が三位にいますことは人が創造されて、神と人が関わりを持つ過程において明確に啓示され、第二格の御子が人間性を取られ、御父のパースンと言葉と業を証しされ、御子を見たものは父を見ることを意味しました(ヨハネ十四・9)。その御子のパースンと言葉と業を聖霊が証しされます(ヨハネ十六・13,14)。よって御子が御父から受けたものを御霊が受けて私たちの内に伝達されるわけです(ヨハネ十六・15)。このように人との関わりにおいて神の三位には役割分担が存在し、経綸的機能的意義を持ちます。これを「経綸的三位一体」と言えます。 神の三位はそれぞれの間において愛と調和の交わりを得ていました。旧約においては神は神、人は人であって、その間に絶望的なギャップがありました。ここには律法の危うい橋が架かっているのみで、しかもそれを渡ることは人の肉の弱さのゆえに不可能であったのです(ローマ八・3)。しかし新約では御子が人性を取られたことにより、神と人の間にいのちの結合という確固たる橋が架けられました。神は律法がなし得なかったことを御子の肉によってなしてくださったのです(同4節)。この御子の成就されたことを私たちに伝達し、実体化して下さる方が御霊です。神の贖いのご計画は神が一位であったとしたら決してなし得なかったことでしょう。贖いは神が神と人の両当事者を引き受けることによってのみ成就される、すなわちその三位一体によってのみ成し遂げることができるのです。 人間として生きる―人間性の栄光化― 御子は人間性において罪を知らず(第二コリント五・21)、完全なるご性質を有しておられ、サタンとこの世に対して完全なる勝利を得られました。神が御子の人性において、堕落によって失われた人性の栄光を回復されたのです(ローマ八・30、九・23)。御子にあって、その二元生活をとおし、また死と復活をとおして、損なわれていた人間性は完全に回復され、神の栄光に与るにふさわしいものとされたのです。その御子の獲得した栄光を私たちのものとして下さるのです(第二テサロニケ二・14)。神性において永遠に神の子であった方が自らを低くして人間性を取り(ピリピ二・6-8)、その人間性は完全であったにも関わらず、死と復活を通してその人間性においても神の子と宣言されたのです(ローマ一・4)。 神ご自身が自ら人となられることにより、神と人の側の両当事者を御子にあって引き受けてくださったのです。すなわち旧約は人が神の要求を満たすならば神は人を祝福するという双務契約でしたが、それを神ご自身が御子の人間性において成就され、その法的効果を私たちに継承してくださるのです(ローマ三・21,22)。つまり新約は神が神の側と人の側を引き受けてその契約を履行して下さり、私たちはその効果に与ることができるわけです。つまり新約は神が両当事者を引き受けてくださる片務契約です。これはアダムにあって私たちも罪を犯した私たちがアダムの系列に死ぬことにより、キリストの系列に復活しキリストに結合されるとき(ローマ六・5、第二コリント一・21、五・17)、キリストにあって成就された事実が私たちのものとされるのです(同一視(化)の原理:ローマ五・16-21)。私たちはキリストに結合されるとき、キリストがなした法的効果を継承するのです。アダムにあって罪を継承したのと同様に、キリストにあって義を継承するのです。 その死の意義―贖いと同一化― イエスの死は単に私たちが受けるべき死刑判決を身代わりに負ってくださり、その血で私たちを贖ってくださったのみではありません。アダムにあって人類に入った罪(Sin)を対処するために、罪を知らないご自身が罪とされたのです(第二コリント五・21)。それは罪の肉の様をとられたキリストの肉体にあって罪を処罰するためでした(ローマ八・3)。罪を知らない方が罪とされる―これは私たちの知性を超える神のわざです。私たちの責任によらないでアダムによって入り込んだ諸々の罪(sins)のルーツである罪(Sin)そのものをご自身の聖なる肉にあって処罰されたのです。これがどのような意味であるのか、私たちの限られた知性は理解することができません。 また同時にイエスと私たちはその死と復活に同一視(化)され、イエスが十字架で死んだとき私たちも同時に死に、イエスが復活したとき私たちもまた復活したのです(ローマ六・3-7)。神のわざは時間と空間の制限を越えます。キリストの死と復活につながれること―これこそがその後キリストが勝ち取ってくださった勝利、栄光、神の富を私たちの所有とするための正当な根拠を与えるのです。ここでのキーワードは「キリストにあって(in Christ)」です。私たちはアダム血統からキリスト血統へといわば移植されたのです。 神性は御子において人性と結合されました。イエスは神であり、人である方、つまりユニークな神-人です。そのイエスの人性をとおして私たちはキリストと結合されました。私たちはキリストの内におかれ、キリストは私たちのうちにいます(ヨハネ十四・20)。御霊の内住を受けることは御子を得ることであり御子が生きるので私たちも生きるのです(同17-19節)。御子を得ることは御父を得ることです(第一ヨハネ二・23)。私たちのうちには神ご自身がおられ、私たちも神のうちにいます(同四・15,16)。神が私たちを住まいとし(エペソ二・22)、私たちも神を住まいとするのです(第一ヨハネ四・15:原語)。何と言う栄光でしょう! 贖いの本質―いのちの解放― 贖いの代価として罪のない子羊の尊い血潮が流されました。それによって私たちは罪(sins)の赦しを得ています(エペソ一・7、コロサイ一・14)。しかし赦しは得ても実際に地上における生活をする間に、私たちが生まれつきもっている人間性によっては、その性質も能力も神の標準を生きることはできません。それは犬は犬のいのちをもっているだけですから、けっして二本足では歩くことができないのと同様です。いくら訓練したところで、気を抜けば犬は四本足で歩きます。それが犬のいのちの特性だからです。犬にとって二本足で歩くことはいわば「偽善」なのです。「偽善」とはその特性に反して何かをすることに他なりません。このような努力によっていかに多くのクリスチャンが葛藤していることでしょう。牧師のメッセージで人を赦せと言われるほどに、憎しみを持て余す自分をどうしてよいか分からなくなります。愛せ、と言われて、愛を振り絞っても顔が引きつってしまう自分を見出します。私たちの義はボロですし(イザヤ六十四・6)、私たちの愛は出し殻です。 神は御子の贖いによって罪を赦して下さったのみではなく、神の標準を生きることを可能とするいのちを与えてくださったのです(マタイ二十・28、マルコ十・45)。犬に対して人間の標準を生きろと命じてもナンセンスです。しかし多くのクリスチャンはこれをしています。自分の生まれつきのいのちで神の標準を生きようと。自分の髪を自分で引っ張って空を飛ぼうとしているようなものです。神の標準を生きるためには必ずその標準を生きることのできる特性と性能をもったいのちが必要なのです。人間のいのちを犬にインプラントすることができれば、犬は人間として生きるでしょう(外見は犬のままですが)。 私たちの場合も同じです。神はイエスにおいて人間性を回復されると同時に、その完全なる人間性を生きられたご自分のいのちを私たちのうちにインプラントして下さるのです。これが御霊の第一の機能です。新約においては御霊は「イエスの御霊」(使徒十六・7)、「キリストの御霊」(ローマ八・9、第一ペテロ一・11)、「イエス・キリストの御霊」(ピリピ一・19)と呼ばれます。旧約では単なる神の霊であり、人のうちに内住され、いのちとなることはありませんでした。新約においてはイエスという人間の霊のうちに住まわれたお方として、私たちのうちに住まい、イエスの完全なる人間性を私たちの霊のうちから魂の領域へと証しし、実体化し、イエスを栄光化されるのです(ヨハネ十六・13-16)。御子が人性を取ることにより、神と人の新しい関係の地平線が開かれたのです。 復活によっていのちを与える霊となられたキリストは霊的領域に生きる方として、御霊とひとつです(第一コリント十五・45)。パウロにとって御霊の臨在はキリストの臨在と等価であったのです(第二コリント三・16-18)。この御霊によってキリストがその聖なる体を裂いて解放されたいのちが私たちのうちにインプラントされたのです。よって旧約の信仰の偉人たちもその信仰のゆえに義とされても、このいのちを受けることはなかったのです(ヘブル十一・39,40)。しかし私たちは御霊の内住を得ています。御霊の内住は御子と御父の交わりに与ることです(第一ヨハネ一・3)。私たちは身体は旧創造に属するものですが、霊的には新しい創造であり、いわば新人類なのです(第二コリント五・17、ガラテヤ六・15)。 御霊の注ぎの意味―いのちの結合の実現― 御霊が注がれるためには、イエスの死と復活のプロセスが不可欠でした。神にとって第一のものは拒否すべきものです(第一コリント十五・46)。どうしてですかと聞かれても、神の決められたことですから分かりません、と答えるしかありません。それは神の主権です。肉によればダビデの子孫として誕生された御子イエスは完全なる人間性にあって、完全なる生活を送り、ご自身の本性を証しされました。しかしなお、死に至るまでも従順であり、ついに復活され、その霊性において公に神の御子として証しされました(ローマ一・4)。このことによって彼は多くの子たちを栄光へと導くことがおできになり、よってそれは彼にとってふさわしいことであったのです(ヘブル二・10)。死と復活を通してこそ、ご自身のうちに秘められていたいのちが解放され、またご自身が物理的な制限を受けることなく、いのちを与える霊として私たちのうちに内住してくださることができるようになったのです。 御霊はご自分の人格を証しされることはなく、復活されたキリストを私たちのうちで実体化し、キリストのいのちを生かしてくださいます。御霊は人間イエスのうちに住まい、その時に経験されたイエスのご性質、言葉、わざ、思い、感情、意志などありとあらゆる要素を私たちのうちに実体化するのです。御霊はイエスから受けて、私たちに知らせ、イエスの栄光を現します(ヨハネ十六・13-15)。よって「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(同16節)とあるとおり、御霊の臨在はイエスの臨在そのものです。 かくして死と復活を経たイエスのいのちは御霊によって私たちに伝達され、私たち神の教会は神の畑として、水注ぎを受け、御言葉の養分にあずかり、種が芽を吹き、穂がなり、穂の中に実が入ります(マルコ四・26-29)。この成長は人手によるものではなく(同28節)、成長させてくださるのは農夫である神なのです(第一コリント三・6、ヨハネ十五・1)。人が焦っても、難業苦行しようとも、断食しようとも、一切この成長とは関わりがありません。すべて神によるのです。どこに人の功績があるでしょう。誇る者は主を誇れ、とあるとおりです(第二コリント十・17)。 旧約時代には聖霊はある目的のためにある種の人々の上に(upon)に臨在されたのみであり、彼らのうちにいのちとしてない住されることはありませんでした。このような聖霊の満たしは、「経綸的機能的外的満たし」と言えます。それに対して、新約の私たちが得ている満たしは、御霊がいのちとして私たちのうちに(in)住まわれ、キリストを構成してくださるのです。これを「本質的いのちの内的満たし」と言えます。旧約と新約では神と人の関わりは本質的に異なるのです。 内的なキリストの発生と分化―種にしたがって― アダムにある創造は種に従ってなされました(創世記一・12)。犬はどう「聖化」されても犬です。人もどれだけ「聖化」されても人です。神の聖の標準を満たすことなど決してできません。いのちの種類が異なるのです。よって人のいのちはそのスペック(性能)が神の基準を満たし得ないのです。これは努力とか聖化の問題ではありません。人が聖化されて神の基準を生きるのは基本的に進化論と同じ発想です。 「ぶどうの枝が木につながっていなければ、実を結ぶことはできない。あなたがたはわたしから離れては何もできない。」とイエスは言われます(ヨハネ十五4,5)。内住のいのちに頼ること、そのいのちの成分の流れが私たちの死ぬべき体にもいのちを与え、神の標準を生きさせてくださるのです(ローマ八・10,11)。むしろ私たちが主権の座を降りれば降りるほど内なるキリストが生きてくださいます。パウロにとって「もはや生きているのは私ではなく、キリストである」(ガラテヤ二・20)、また「私にとって生きることはキリストである」(ピリピ一・21)と宣言できるほどに、内なるキリストが具体的にかたちをとり、実体化され、主観的に経験されていたのです。私たちはキリストに似せられるのでもなく、キリストの性質を帯びるのでもなく、キリストご自身が形作られるのです(ガラテヤ四・19)。私たちはキリストと同じ姿に定められているのです(ローマ八・29): 「ここに未だ科学がほとんど認識していない別の種類のいのちがあります。それは発生と分化の法則に従います。組織をそれ自体の形態へと形成します。それがキリスト・ライフ(キリストのいのち)です。鳥のいのちは鳥、すなわちそのいのちに応じた姿を形成するのと同様に、キリストのいのちはキリスト、すなわちキリストご自身の姿を、人間性の内側に形成します。 ・・・発生と分化の法則によれば、この過程は特異的な様式を取ります。それは芸術家が作品を構成するようなものです。私たちの全人生をとおして、この驚くべき、神秘的な、栄光ある、しかし確実に定義されうる過程が『キリストが形作られるまで』継続するのです。」(Drummond, Natural Law in the Spiritual World in Vincent's Word Studies)。 キリストをエンジョイする―至聖所のエクスタシー― 神が御霊によって人の内に住まう―何という冒涜的思想でしょう。しかし聖書にはそう書いてあります。神は人の手による宮などには住まない、ご自身の創造物である私たちのうちに住まうのです。ただし条件があります。私たちの体は旧創造に属するにしても、その中にこれまで我が物顔で生きていた古い私が死に渡されることです。「私は、私が、私の・・・」と果てしない「私」の主張に満ちていた私の終焉です。これなくしては復活がなく、復活がなければ、御霊の内住もあり得ません。自らをキリストの十字架における事実に従って、今この時自らの十字架を負うこと―御霊に満たされるための必須条件は明け渡しあるいは主権の放棄です。明らかな良心と共に「アイ・アム・ナッシング」と宣言し得るとき、完全なる、聖にして、愛であり、義であるお方が、この土クレに過ぎない人を住まいとされるのです! 私たちは神の神殿として、聖霊の宮として、キリストに心の中のリビングルームを提供する必要があります。私たちの心はいのちの培地である(箴言四・23)と前著で述べましたが、キリストが形作られる養分豊かな土壌を耕し、キリストが安息して座してくださるリビングを設ける必要があります。私たちが心を頑なにし、心を騒がせるとき、キリストは安息の座を失います。私たちのうちでキリストが安息されるとき、私たちもキリストと共にキリストご自身を楽しむのです。これは御霊の臨在に浸るとか、気持ち良くなるとかのレベルではなく、キリストその方自身が私たちと交わりを得て下さるのです。キリストの温かさ、香り、手触り、柔らかさ、慈しみ、憐れみといったキリストの属性だけではなく、キリストご自身を楽しむのです。夫と妻が互いの存在自体を愛しむように、私たちはキリストを楽しみ、キリストは私たちを愛しんで下さるのです。これが至聖所における隠されたエクスタシーの経験です。 |